The Inner Shift
内的シフト
ならば思考は体にとって危険なのでしょうか? 答えはイエスです。
殺すように見えている思考は、自身も殺され得ると思考者に教えるものなのです。
だから彼は(殺すことが可能だと考えた思考者)は自分が学んだこと故に死にます。そして彼は生から死へ移ります。
これが彼が不変/不断よりも不安定に価値を見いだした最後の証拠なのです。
もちろん彼は自分はハピネス(幸福)を求めていると考えていたのです。
しかし彼は「それが真理で、従って不変に違いない」{と考えて}故にそれを求めたのではないのです。
喜びの不変性は、あなたの理解からはかなり不慣れな状況/条件なのです。
しかしそれがどのようなものか想像出来たなら(例えそれが理解出来なくても)あなたはそれを熱望します。
ハピネス(幸福)の不変性には例外はなく、どのような変更もありません。それは「神が創造に与えている愛」と同じように揺ぎないのです。
創造者が自身の知っていることに対して信頼/安心/確信しているように、創造はビジョンの中で信頼/安心/確信しており、全てを眺めて全てを同じと見るのです。
創造(創造されている者)は「はかないもの」は見ないのです。何故なら創造は全てが創造自身と似ること(創造自身と同じように成ること)を願っており、そのように全てを見るのだから。
「創造の不変性を挫く力」を持っているものはいません。何故なら、創造自身の願いを揺るがすことは出来ないから。
「裁きではなく癒やすことを選択した者達」のもとに平和が来るに違いないように、「最後の質問が他の質問にとって必然だと理解した者達」のもとにそれ(創造の不変性)が来るのです。
理性はあなたに「あなたは幸福を不安定(気まぐれ/バラバラ)に求めることは出来ない」と教えるのです。
何故なら、あなたが求めたものをあなたが受け取り、そして幸福は不変/不断なものなので、あなたはそれ(幸福)を常に得るためにそれを一度求める必要があるだけなのだから。
だからもし(現時点で)あなたがそれ(幸福)を常に持っていないのだとしたら、あなはそれ(幸福)を求めなかったのです{あなたは幸福以外のものを求めたのです}。(幸福の性質故にこれが明白なのです。)
何故なら「それ(自分の望み)を与える力」が何らかの形で約束されていると信じたなら、自分の望みを求めない人は誰もいないのだから。
彼は(人は)間違ったものを求めたり、間違った所で求めたり、間違ったものから求めたりするかもしれません。
いずれにしろ彼は求めるのです。 何故なら願いはリクエスト(求めること)で、「神自身がその者に対しては決して答えを惜しまない者」{神によって必ず願をかなえてもらえる者}によってこのリクエストがなされているのだから。
神は彼(神の子)が求めているもの全てを彼(神の子)に与えています。
しかし「彼(神の子)が確信を持っていないもの」を神が与えることは出来ません。
彼が確信を持てないでいる限り、彼はそれを求め願いません。 そして神のギフトは、そのギフトが受け取られない限り不完全なのです。
神の意志と神のハピネス(幸福)を完成させるあなたの意志は、神の意志と同等にパワフルなのです。 このパワーはあなたの幻想の中でも失われないのです。 最後の質問にどう答えるかあなたがまだ決めていないのは何故だか、注意深く考えてみなさい。
他の(三つの)質問へのあなたの答えが、あなたに部分的狂気をもたらすことを可能にして来たのです。{初めの三つの質問に対してあなたが時にはNOと答えているにより、あなたは一時的狂気に陥っているのです。}
しかし最後の質問は「あなたが完全に正気になることを求めているかどうか」尋ねているのです。
聖なる瞬間とは『「神があなたに与えたもの」をあなたが認識すること』を神が求めていることなのです。
ここに、「常にそこに存在しており見ることが出来るもの」に対する気付き、常にあなたのもので在り得るハピネス、つまり理性への偉大なアピール(要求)があるのです。
ここに、あなたが永遠に体験し続けられる不変の平和があるのです。
ここに、「否定が否定したもの」があなたに対して示されている)のです。
何故ならここに、おいて最後の質問が答えられており、あなたの求めているものが与えられているのだから。
ここに、未来が今あるのです。何故なら「決して変化しないものに対するあなたの熱望」故に時間は無力なのだから。
それは{時間が無力なのは}、「あなたの関係の神聖」と「あなたの関係の神聖に対するあなたの気付き(意識)」の間に何も挟まないことをあなたが求めたからなのです。
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