Faith, Belief and Vision
信心、信念、ヴィジョン
全ての特別な関係のゴールは罪{分離}なのです。
何故なら特別な関係とはリアリティを値引きして「合一(合意/統一/平和な状態)のように見えるもの」の為にリアリティを調整しようとする試みなのだから。
{特別な関係とは、リアリティに対して分離的定義を当て嵌めリアリティへの見方を調整し、偽りの合一を作ろうとすることです。}
次のことを忘れないでください。
値引き交渉する(取引しようとする/取り替えようとする)ことは限定/限界を設定することです。そしてこのような限定的関係をあなたと一緒に築いている全兄弟をあなたは憎むのです。
あなたは公正の名の下に値引き交渉(商談契約)を保持しようとするかもしれません。時には自分自身のための支払いを要求し、もしかしたら他者のための支払いをより頻繁に要求するかもしれません。
そしてあなたはこの「公正」の中で、この{特別な}関係の為に受け入れられている目的から来る罪悪を軽減しようとするのです。
しかし聖霊はその目的(あなたの特別な関係の目的)を変えて、その関係を聖霊が使えるようにし、その関係をあなた達にとって無害なものにするのです。
あなたがこの変化を受け入れた時、あなたは真理の為にスペースを空けるというアイディアを受け入れたのです。
罪の源は消え去っています。
あなたは罪の結果をまだ体験していると想像しているかもしれませんが、それは{罪は}もうあなたの目的ではありません。
そしてあなたはもはやそれ(罪)を求めていません。
人は、自分が何か目的を求めている時には、その目的が置き換えられることを許しません。
何故ならマインドが受け入れたゴール程(マインドによって)大切にされ守られるものは無いのだから。
だからマインドはマインドが受け入れたゴール(目的)に従うのです。時にはしぶしぶと時にはハッピーに、しかし常に信心をもって、そして信心が確実にもたらす執拗さ(くじけない態度)をもって。
信心の力が罪{分離}の中に置かれた場合、信心の力は決して認識されなくなってしまいます。
しかし信心が愛の中に置かれたなら、それは常に認識されるのです。
信心が山を動かすということがどうしてあなた達には奇妙に聞えるのでしょう?
確かにこれ程の力に対して、それ(信心)は僅かな行為です。
信心は(自分が鎖に繋がれていると神の子が信じている限り)神の子さへも鎖に繋ぐことが出来るのです。
彼がそれ(自分を縛っている状態)から解放されるのは、彼がそれを信じなくなって、「それらの状態に彼を縛り付けることが出来る」ということに対する信心を抜き取り、自分の自由な状態の中に信心を与えることなのです。
正反対の両方向に等しく信心を与えることは不可能です。
あなたが罪に対して与えている信心を、あなたは神聖から取り外しているのです。
そしてあなたが神聖に対して捧げている信心は、罪から取り外されているのです。
神聖のゴールは信心と信念とヴィジョンという方法でもって到達されるのです。
聖霊は、信心と信念とヴィジョンを通して、あなたを(今まであなた達が信心を与えてきた幻想から逸らせて)リアルな世界に導くのです。
これが聖霊の指示で、聖霊はこれ(リアルな世界)しか見ないのです。
あなたが迷っている時、聖霊はひとつの世界しか実存していないことをあなたに思い出させるのです。
聖霊の信心と信念とヴィジョンの全てはあなたに与えられているのです。
そしてあなたが(あなたの信心と信念と視界の代わりに)それら(聖霊の信心と信念とヴィジョン)を完全に受け入れた時、あなたはもはやそれらを必要とはしないのです。
何故なら信心とヴィジョンと信念は確信状態が得られる前まで有効であるに過ぎないものだから。
天国の中ではそれら(信心/ヴィジョン/信念)は知られていません。
しかしそれらを通して天国に届くことが出来るのです。
神の子の信心が不足していることは不可能です。しかし神の子は自分の信心を何処に与えるか選ぶことが出来るのです。
不信心は、信心の不足ではなく、虚像/無(NOTHING)に対する信心なのです。
幻想に対して与えられている信心が力を失ってしまうわけではありません。しかし幻想に対して信心を与えたなら、神の子は自分が無力だと信じるように成るのです。
こうして彼(神の子)は自分自身に対して不信心に成るのですが、彼が彼自身に与えた彼自身に対する幻想には強い信心を与えるのです。
何故なら確信を失う方法として、そして罪を見つける方法として、あなたは{まだ}信心/知覚/信念を作っているのだから。
この狂気の指示があなたの選択だったのです。 そして「あなたが選択したこと」にあなたが与えた信心により、あなたは「あなたが求めたこと」を作ったのです。
聖霊は「あなたが罪を見つけようとして使っている罪の方法」の全てに対して有用な使い道を持っています。
聖霊がそれらの方法を使ったならあなた達は罪から遠ざかって行くのです。 何故なら聖霊の目的は(罪/分離とは)正反対の方向を向いているから。
聖霊はあなたが使っている方法{知覚}を見て理解しています。 しかし聖霊はあなた達がそれらの方法を作った目的{分離}は見ていません。
聖霊はそれらの方法をあなたから取り上げません。 何故なら聖霊は(あなた達が今まで特別な関係を作るために使ってきた)それらの方法が「あなたの為に聖霊が意図していること」をもたらす方法として使えることを理解しているのだから。
あなたは知覚を作って、あなたの兄弟達の中から(特定の仲間達を)選んで、その人達と一緒に罪を求めていたのです。
聖霊は(あなたの)知覚を、「あなたは聖なる関係のヴィジョンだけを見ようと欲するべきである」と教える方法として見ているのです。
するとあなたは自分の信心を神聖に与え、神性を熱望し、神性を熱望する故にそれを信じるようになるのです。
そして以前は罪に仕えていた方法{知覚}の方向性が変えられて、今その方法{知覚}が神聖に向けられたなら、信心と信念がヴィジョンに接続されるのです。
何故なら、あなたが罪だと考えているものは(本当は)限定なのだから。
そしてあなたが特定の人を体に限定しようとした場合、あなたはその人を怖れており、だからあなたはその人を憎んでいるのです。
そしてあなたは彼を赦すことを否定して、彼を体に閉じ込めています。何故なら、あなたにとて罪の方法(罪への信心/知覚/信念)が大切なのだから。
こうして体にあなたの信心と信念が与えられているのです。
しかし神聖は怖れを(症状としてではなく憎しみの原因として)取り外すことによって憎しみを取り外して、あなたの兄弟を自由に解き放ちます。
自分達の兄弟達をその体から解放する者達が怖れを持つことは出来ません。
彼等は全ての限定を{聖霊に}取り除かせる選択をすることによって、罪の方法を拒否するのです。
自分達の兄弟を神聖の中で見ようと願った時、信念と信心の力は体を遥かに超えて行き、ヴィジョンの邪魔をするのではなくそれをサポートします。
しかしまず始めに彼等は自分達の信心がどれだけ世界に対する自分達の理解を限定しているか認識することを選び、{世界に対する}違う視点が与えられたなら信心の力を{今までとは}別の所に置こうと願うのです。
この決意の次にやって来る奇跡もまた信心から生まれて来ます。何故なら、罪から目を逸らそうとする人達(罪を見続けるのは止めようと決めた人達)にはヴィジョンが与えられ、神聖へと導かれるのだから。
罪{分離}を信じている人達は、聖霊が犠牲を求めていると考えざる得ないのです。
何故なら、(罪を信じている)彼等はこのようにして(犠牲を払うことにより)彼等の目的が達成されると考えているから。
兄弟よ、聖霊は犠牲が何ももたらさないことを知っています。
聖霊はバーゲン(値引き/取引)はしません。
もしあなたが聖霊を制限(限定)しようとしたなら、あなたは聖霊を怖れるようになり聖霊を憎むようになります。
聖霊があなたに与えているギフトは、天国のこちら側{エゴの幻想領域}にある何ものよりも偉大なのです。
それが認識される瞬間はあなたの手の中にあります。
「すでに繋がれているもの」にあなたの意識を繋げなさい。
あなた達がお互いに与え合っている信心がこれを達成出来るのです。
何故なら世界を愛している彼(聖霊)が世界をあなた達の為に見ているのだから。
聖霊が見ている世界には一つの罪もなく無垢で、その光景は天国と同じ位美しいのです。
犠牲に対するあなたの信心が、あなたの視界の中で犠牲が偉大な力を持っているように見せています。
しかしそれ故に(あなたが犠牲に対して信心を与えている故に)あなたが盲目に成っていることをあなたは理解していないのです。
何故なら{あなたが犠牲に信心を与えている限り}一つの体が他の体の犠牲を要求する必要があるのだから。
{しかし本来}マインドには犠牲を要求することは出来ず、マインドが自身を犠牲にすることも不可能です。
だから体が犠牲を要求することも(本来は)出来ないのです。
犠牲を使おうという意図はマインドの中で起こるのです。マインドが体を使って(マインドが信じている)罪の方法を遂行させようとするのです。
このようにしてマインドと体の繋がりが「罪を尊んでいる者達」の避けがたい信念に成っているのです。
そして犠牲が限定のための不可欠な方法(手段)に成っており、憎しみの方法(媒介)に成っているのです。
あなたは聖霊がこれ(犠牲の状態)と係わり合っている(このことを心配している)と思いますか?
聖霊は「聖霊がそこからあなたを導き出そうとしている状態」をあなたに与えようとはしません。
あなたは、聖霊があなたの為にあなたを貧しくすると考えています。
しかし「良きこと」と「貧困」は正反対で、それらを繋げる意味は全くありません。
(良きことと貧困/欠乏を一緒にしようとすることは)月と太陽が夜と昼に{交互に}出るのでそれらは一つのものだ、それらは繋がっているに違いない、と言う位おかしなことです。
しかし太陽が出ているということは、月が出ていないということなのです。
「光を与えているもの」が「見られる為に暗闇を必要としているもの」と一つに成ることは不可能です。
そして片方がもう片方の犠牲を必要とすることは在り得ません。
しかし片方が居なくなることで、もう片方が見えるようになるのです。
{現代の考えでは、月と太陽に関するこの論法には欠点がありますが。 自明なので説明は控えます。 訳注}
体は「罪のために犠牲にされるもの」として作られたのです。
そして暗闇の中ではまだそのように見られています。
しかし光のヴィジョンの中でそれ(体)を見たなら、それはかなり違って見えるのです。
あなたは「体が聖霊のゴールに仕えること」に信心を持つことが出来るのです。
そして「盲人が視力を取り戻すこと」を助ける方法に仕えるように、体に力を与えることが出来るのです。
しかし彼等(聖霊)が見ている時、彼等は体を越えて見るのです。そしてあなたも体を越えて見るのです。
それ(体)にあなたが与えた信心と信念は「体を越えたところ」に属しているのです。
あなたはマインドから体に知覚と信念と信心を与えたのです。
「それら(知覚と信念と信心)を作った者」にそれらを返しましょう。
それら(マインドの知覚と信念と信心)を使ってそれ自身を「それが作ったもの(体の知覚と信念と信心)」から救える者{聖霊}に、それら(マインドの知覚と信念と信心)を与えましょう。
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