Oct 20, 2011

Ch22-1

SALVATION AND THE HOLY RELATIONSHIP
救済と聖なる関係

長く幽閉されて来たあなた自身を慈しみなさい。
神が繋がった者達(神と一緒になった者達)が一緒に集まっており、もう別々に罪を見ていないことを喜びなさい。
二人(以上)の者達が一緒に罪を見ることは、その者達が罪を同じ場所で同じ時に見ているので無い限り、不可能です。
罪は完全に個人的な知覚/感覚で、あなた達は相手の中に罪を見るのですが、あなた達各人は罪が自分達の中にあると信じているのです。
そして各人は異なったエラーを犯しているように見えており、片方が犯している罪をもう片方は理解出来ません。
兄弟よ、それ(罪)は皆同じで、同じものから作られており、それぞれの罪は同じ方法によって「罪を作った者」のために赦されるのです

あなたの関係の神聖があなた達両者を赦し、「あなた達両者が信じていた事の効果(見ていた事の効果)」を解除するのです。
そして「あなた達が信じていた事の結果、あなた達が見ていた事の結果」が消えた時、罪の必要もそれらと共に消えるのです。 {ならば}誰が罪を必要としているのでしょうか?
罪を必要としているのは、自分の兄弟を自分とは違うように(自分とは違うと)見ている「孤独で孤立している者達」だけなのです。
この違いは見られていてもリアルではなく、この違いが罪の必要をリアルにしているのでもありません。この違いが罪の必要を見せており、罪の必要を正当であるかのように見せているのです。
もし罪が本当にリアルであったならば、これら全てこのこと(罪の必要や正当性など)もリアルに成っていたことでしょう。
何故なら、不聖な関係は違いに基づいたもので、その関係の中ではお互に「自分が持っていないものを相手が持っている」と考えているのだから。

(不聖な関係の中にいる)彼等は集まり、相手から奪って自分を完成させようとするのです。
相手からもう何も奪えないと考えるまで彼等は一緒に居て、奪い尽くしたなら他の不聖な関係へ移るのです。
こうして彼等は(自分達とは異なった)異邦人の世界を漂い歩き、もしかしたら(どちらにとっても休まらない)一つの屋根の下で自分達の体を休め、同じ部屋の中に居ても全く違う世界に中に住んでいるのです。

聖なる関係はこれとは異なった前提の上に立っているものです。
(聖なる関係の中の)各人は自分達の中を見て、そこに不足を見ないのです。
(聖なる関係の中の人は)自分の完成を受け入れ、完全な自分自身として他者と繋がることによって、それ(自分の完成)を拡張します(差し伸べます)。
彼はこれらの自己(自分の自己と相手の自己)の中に違いを認めません。何故なら体のみが違うのだから。
だから彼は自分で取ろうとするものは何も見ないのです。
彼は自分のリアリティを否定しません。何故ならそれは真理なのだから。
彼は天国のすぐ下に立っているのですが、(彼が立っている所は)とても天国に近いので、彼が地に戻ることはないのです。
何故ならこの関係は天国の神聖を持っているのだから。
これ程天国に似た関係が、どれぐらい故郷から離れられると云うのでしょうか?
{これ程天国に似た関係は、故郷からは全く離れられないのです。}

聖なる関係が何を教えられるか考えなさい!
ここで違いへの信念が解除されるのです。
ここで「違いへの信心」が「同一性への信心(全てが同じであることに対する信心)」へとシフトされるのです。
そしてここで違いの光景がヴィジョンへと変容されるのです。
そして理性が「あなたの合一の合理的結果」にあなたを導くのです。
あなたが繋がった結果としてあなたが拡張する(自身を差し伸べる)に従って、それ(あなたの合一の結果=神の子)も拡張して行くに違いないのです。

あなたが体を越えて伸び出してあなた達を繋がらせた時、それ(あなたの合一)もそれ自身を越えて伸び出していかなければいけないのです。
そして今、あなたが見ていた同一性が拡張され(違いの下に隠れていた同一性が明白になるよう)違いの感覚を全て取り除くのです、
ここに黄金の円があり、ここであなたは神の子を認識するのです。
何故なら「聖なる関係の中に生まれたもの」は決して終らないから。

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