Oct 6, 2011

Ch20-8

The Consistency of Means and End                    
方法と結果の一貫性

わたし達は方法と結果の不一致に関して色々と話して来ました。 「あなたの聖なる関係が喜びだけをもたらせるように成るには、方法と結果が一致する(正しく並ぶ)必要がある」とわたし達は言いました。
わたし達は次のことも言っています。
「聖霊のゴールを達成する方法は、聖霊の目的と同じ源からやって来ます。」

このコースはとてもシンプルで直接的で、一貫性のないことは全く含んでいません。
一貫性が無いように見えている部分、あなたにとってより難しく思える部分は、方法と結果がまだ合っていない(上手く並んでいない)部分を示しているのです。
これがかなりの居心地悪さを作っているのです。 しかしそのような必要はないのです。
このコースは、あなたからは殆ど何も必要としていません。
「これ程わずかな要求から、これ程沢山{の祝福}を提供出来るもの」は想像することさへ不可能です。

関係が罪から神聖に急変したことに由来する居心地悪さを感じるこの期間は、もう殆ど終っています。
あなたがこの居心地悪さを感じている度合いは、あなたが(あなたの関係の目的を罪から神聖に変えた)彼(聖霊)に方法を任せていない度合いを表しているのです。
あなたは自分がこのゴールを求めていることを認識しました。
あなたはその方法を受け入れたいと思っていますか?
もしそうでないなら、自分が首尾一貫していないことをあなたは認めてください。
目的は方法によって達成されるのです。
もしあなたがゴールを欲しているなら、あなたはその方法も求める必要があるのです。
真摯でありながら「私は何よりもこれが欲しい。しかしこれを得る方法を学ぶことはしたくない。」と言うことが出来るでしょうか?

ゴールを得るために聖霊は本当に少し{聖霊に譲る意志}を求めるのです。
聖霊が方法を(あなたに)与えるために、(あなたから)求めるものも少しなのです。
方法はゴールの次に来るものです。{ゴール/目的により方法が決まるのです。}
あなたが躊躇している時、それは方法があなたを怖がらせているからではなく、目的があなたを怖れさせているからです。
これを覚えておきなさい。 そうでないと、あなたは「方法が難しい」と信じてしまうエラーを起こしてしまいます。
これら(方法)があなたに与えられるものならば{これらの方法はあなたに与えられているものなので}、これら(方法)が難しいことなど在り得るでしょうか。 
これら(あなたに与えられている方法)がゴールを保障しているのです。

そしてこれら(方法)はそれ(ゴール)とパーフェクトに並んで(整列されている)いるのです。
これら(あなた達に与えられている方法)をより詳しく調べる前に、「あなた達が方法を不可能だと考えているならば、目的/ゴールを求めているあなたの熱意が揺るいでいること」を思い出してください。 何故なら、もしゴールの達成が可能なら、それを達成する方法も可能であるに違いないのだから。

あなたの兄弟を無罪と見て、それでもその兄弟を体と見続けることは不可能です。
(上記の)これは神聖のゴールとパーフェクトに一貫していることではないですか?
何故なら神聖とは「罪の効果が取り除かれること」を許可して「常に真理で在り続けて来たこと」が認識出来るように成った結果に過ぎないのだから。
無罪な体(罪無き体)を見ることは不可能です。
何故なら神聖はポジティブで、体は単にニュートラル(中立的)なものに過ぎないから。
体は罪深いものでは在りませんが、無罪(sinless)なものでもないのです。
体は何でもないもの(nothing)なので、それに対して有効に「キリストの性質」や「エゴの性質」を与えることは出来ないのです。
体に対してキリストやエゴの性質を与えようとすることは、どちらもエラーなのです。何故ならどちらの試みも、それらの性質をそれが存在し得ない場所に与えようとしているのだから。
だから真理の目的の為には、それら両方の試みが解除される必要があるのです。

体は、不聖な関係をリアルに見せようとしてエゴが使っている方法です。
不聖な瞬間は体達(体と体の間)の時間です。 そしてそこの目的は罪なのです。
それ(体の目的)は幻想の中でしか達成出来ません。 だから「体としての兄弟」という幻想は、不聖な目的に合致しているのです。
この一貫性故に、(不聖な目的の)結果が尊ばれている限り、(不聖な関係が使っている)その方法に対する疑問が起こらないのです。
ヴィジョンは{あなたが抱いている}希望に適合するものです。何故なら視界は常に熱望に順ずるものだから。{視界は常に熱望に左右されるものだから。}
もしあなたが体を見ているなら、あなたはヴィジョンではなく裁き(ジャッジメント)を選んでいるのです。 
({聖なる}関係が難易度の違い(order)を持っていないと同様に)ヴィジョンも難易度の違い(order)を持ってはいないので、あなたは「見るか見ないか」、そのいずれかなのです。
  {この文中のorder order of difficulty を省略したものだと思われます。 }
{あなたはヴィジョンを見て裁き(体)を見ないか、裁きを見てヴィジョンを見ないか、そのどちらかだけが可能なのです。}

兄弟の体を見ている者は、彼(兄弟)に対して裁きを与えており、彼(兄弟)を見ていないのです。
彼(兄弟を体として見ている者)は彼(兄弟)を罪深いものとしては本当は見ていません。
彼(兄弟を体として見ている者)は彼(兄弟)を全く見ていないのです。罪の暗闇の中で、彼(兄弟)は見えないのです。
{体としての}彼は暗闇の中で想像するすることが出来るだけなのです。この暗闇の中では、「彼に対してあなたが抱いている幻想」が彼のリアリティに照らし合わせられていないのです。
ここ(体という罪の暗闇の中)で幻想とリアリティが分離されている(別々に保たれている)のです。
ここでは幻想は決して真理の下にはさらされず、常に真理から隠されているのです。
そして暗闇の中のここで、あなたの兄弟のリアリティが体として想像されており、それが他の体と不聖な関係を持っており、(彼が死ぬまでの)一瞬の中で罪の目的の為に働いているのです{そのように見えているのです}。

この無益な想像とヴィジョンの間には確かに違いがあります。
その違いは想像やヴィジョンそのものにあるのではなく、それらの目的にあるのです。
想像とヴィジョンは共に方法であって、それらの方法はそれぞれ使われている結果(目的)に相応しいものなのです。
片方(の方法)がもう片方の目的の為に仕える事は出来ません。
何故ならそれぞれの方法は(想像とヴィジョンは)、選択されている目的の為に使われている方法なのだから。
{想像/体は分離という目的(結果)を起こすために使われている方法で、ヴィジョンは聖なる目的(合一)をもたらすために使われている方法なのです。 だから想像/体を合一(聖なる関係)のために使おうとしても無駄です。}
(想像とヴィジョンの)それぞれの方法は、それらが意図している結果(目的)の為に使われるのでなければ意味が在りません。 またそれら(想像とヴィジョン)をその意図(分離あるいは合一)から切り離してしまえば、それらは無価値です。
ゴールに対して価値が見いだされている時(ゴールが尊重されている時)に、方法がリアルに見えるのです。
ゴール/目的が罪でないなら、裁きには価値がありません。
体は裁きを通してしか見ることが出来ないのです。
体を見ているということは、あなたがヴィジョンを欠いていて、「聖霊が(聖霊の目的に仕えさせる為に)あなたに捧げている方法」をあなたが否定している証拠なのです。

どうやったら聖なる関係が罪の方法を使って聖なる目的を達成出来るのでしょうか? {それは不可能です。}
あなたは自分自身に裁きを教えたのです。 ヴィジョンは「あなたの教えを解除しようとする者」から学ばれるのです。
彼(聖霊)のヴィジョンは体を見ることは出来ません。 何故ならそれ(聖霊のヴィジョン)は罪を見ることが出来ないから。
だからそれ(聖霊のヴィジョン)はあなたをリアリティへと導くのです。
あなたの聖なる兄弟は幻想ではありません。彼(兄弟)の真の姿を見ることであなたは解放されるのです。
彼を暗闇の中で見ようとするのは止めなさい。 何故なら暗闇の中では、彼に対するあなたの想像がリアルに見えてしまうから。
{暗闇/幻想の中で}あなたは自分の目を閉じて、彼をはじき出しているのです。
これ(自分の兄弟をはじき出すこと)があなたの目的だったのです。そしてこの目的に意味が在るように見えている間は、これを達成する為の方法(体)は見る価値が在るものと評価されるのです。そしてあなたは{リアリティを}見ないのです。
あなたは「私はどのようにしたら自分の兄弟を体なしで見えるだろうか?」と質問するのではなく、「私は本当に彼(兄弟)を無罪/無垢として見ようと願っているだろうか?」とだけ訊ねなさい。
これを自分に訊ねている時「兄弟の無罪によってあなたは怖れから抜け出るのだ」と覚えて置きなさい。
救済が聖霊のゴールです。
そして(聖霊の)方法がヴィジョンなのです。 何故なら「見えている者」が見ているものは無罪(無垢)なのだから。
「愛している者」は(誰も)裁くことは出来ません。そして「愛している者」が見ているものは断罪から自由なのです。
そして彼(愛している者)は「自分では作らなかったもの」を見ているのです。何故なら、それ(彼が見ているもの)は「彼が見るように彼に与えられているもの」で、(彼に視界を与えている)ヴィジョンも同様に「彼が見るように彼に与えられているもの」なのだから。
初めの内ヴィジョンはあなたのもとに少しつづやって来ますが、(自分の兄弟を無罪に見ている) あなたに「あなたに与えられているものが何か」示すにはそれで十分なのです。


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