Oct 22, 2011

Ch22-3

Your Brother's Sinlessnessあなたの兄弟の無罪

幻想の反対は、幻滅ではなく、真理です。
エゴにとっては真理は無意味なのです。エゴにとっては幻滅か幻想だけが可能なように見えており、エゴには幻想と幻滅は違うものに見えているのです。
しかし「幻想と幻滅は同じもの」ということが真実なのです。
幻想と幻滅は両方とも同じだけ惨めさをもたらするのですが、しかし片方がもう片方の惨めさを失くす方法に(エゴには)見えているのです。
全ての幻想は、その重い衣服の暗い影(そこに隠されているものは実は何も無いのですが)に痛みと苦しみを入れて運んでいるのです。
しかしこの暗く重い衣服(幻想)は「幻想を求めている者達」を包んでおり、真理の喜びから彼等を隠しているのです。
真理は幻想の反対なのです。何故なら真理は喜びを捧げて(与えて)いるものなのだから。

喜び以外の何が、惨めさの反対で在り得るでしょうか?
特定の惨めさを捨てて他の種類の惨めさを求めることは解放ではありません。
幻想を作ることは、何も変えないこと(幻想を幻想のままに保ってしまうこと)です。
惨めさの中で喜びを探そうとすることは無意味です。
どうすれば惨めさの中で喜びが見つかるのでしょうか?
惨めさの暗い世界の中で出来ることと言えば、その世界の中から特定の要素を選んで、それらを「違うもの」と見て、その「違い」を喜びと定義することだけなのです。
しかし「違いがない所に違いを知覚認識しようとする試み」が違いをもたらさないのは確実です。
幻想はその幻想の信者達の下に罪悪と苦しみと病と死しか運んで来ません。
これらの幻想が受け入れられている形はどうでもいいのです(幻想の形は無意味で、違いをもたらしません)。
どのような形の惨めさであっても、理性の目から見れば、それら(様々な形の惨めさ)を喜びと取り違える(間違う)ことは不可能なのです。

喜びは永遠です。
持続しない「幸福のように見えること」は本当は怖れなのだとあなたは確信することが出来ます。
喜びは悲しみには変りません。 何故なら永遠は変れないから。
しかし悲しみが喜びに変ることは可能なのです。 何故なら時間は永遠に譲るものだから。
「時間を持っていないもの」(無時間)だけが変化しないのです。
時間の中にある全てのものは、時間と共に変って行きます。
しかし(想像上の変化ではなく)リアルな変化が起こる為には、幻想を(他の夢ではなく)真理に譲る必要があります。
それぞれの夢(幻想)の間には違いがないのです。
理性があなたに「惨めさから抜け出る唯一の方法は、惨めさを認めて、それ以外の道を行くことです」と言うのです。

真理は全て同じで、惨めさも全て同じですが、それら(真理と惨めさ)はお互いからは異なっているのです。 例外無く、全ての意味で、全ての状況で(それらはお互いから異なっているのです)。
一つの例外が存在し得ると信じることは、同じものを違うものと混乱することなのです{真理と幻想を混乱することなのです}
真理に反して一つの幻想を尊び、それを真理に対して防御したなら、全ての真理が無意味になり、全ての幻想がリアルに成るのです。
これが信念の力なのです。 それは妥協出来ないのです。
信念が一つの生き物でも除外してそれを赦しから遠ざけた場合無垢に対する信心は罪に対する信心なのです{無垢に対する信心が罪に対する信心に成ってしまうのです}。
理性とエゴの両方がこれをあなたに告げています。
しかし理性とエゴはこのこと信念が生き物を一つでも除外して赦しから遠ざけた場合無垢に対する信心が罪に対する信心に成ってしまうこと)から、それぞれ「異なったもの(異なった状態)」を作り上げるのです。

エゴは「あなたが誰かに対して罪悪を見ないことは不可能である」とあなたに確約するのです。 そしてこのヴィジョン(あなたが誰かに対して罪悪を見ないことは不可能である)が罪悪からの解放が得られる唯一の方法であったなら、罪に対する信念は永遠であるに違いないのです。

しかし理性はこれに対して違う見方をします。
何故なら理性は「このアイディアの源がこのアイディアを誤りにしたり真にしたりしている」と見るのだから。 アイディアがその源と似ているのであれば(同等であれば)、これが(アイディアの源がこのアイディアを誤りにしたり真にしていることが)正しいに違いないのです。
だから理性は「もし罪からの解放が聖霊に聖霊の目的として『意図したことが全て可能である者』から与えられているのなら、これ(罪からの解放)を得る方法は可能であるに違いない」と言うのです。
その方法は存在するに違いなく、あなたはその方法を持っているに違いないのです。
これはコースの中でもかなり重要な地点です。
何故なら、ここであなたとエゴの離別が完了する必要があるから。
もしあなたが聖霊の目的を達成させる方法を持っているなら、それらの方法が使えるのです。
そしてそれらの方法を使うことにより、それら(聖霊の目的)に対する信心をあなたは得るのです。
しかしエゴにとってはそれらの方法は不可能に違いないのです。そして達成される望みが全くないことをしようとする者は誰も居ません。
あなたの創造者が意図していることは可能である(あなたを創造している者の意志は実現可能である)とあなたは知っています。
しかしあなたは「それ(神の意志の成就)が可能ではない」と自分に思い込ませたのです。
今あなたは「あなた自身」と「あなた自身に対する幻想」のどちらかを選ぶ必要があるのです。
その両方を選ぶことは出来ず、一つだけ選ぶ必要があるのです。

この選択を避ける(先に延ばす)必要は何処にもありません。 これの選択をする必要があるのです。
信心や信念はどちらへでも転んで行けるものです。しかし理性があなたに「惨めさは一つの選択(幻想を選ぶこと)の中にしか存在していない、そして喜びはもう一つの選択(真理を選ぶこと)の中にある。」と告げるのです。
今お互いを忘れてしまうのは止めなさい。
同じである(同等である)あなた達は、自分一人では決めず、お互いと異なる選択はしないのだから。
あなた達はお互い(自分達両方)に対して「生か死か」いずれかを与えているのです。
あなた達はお互いの救済者かでなければ裁判官(断罪者)で、お互いに対して聖域を与えているか断罪を与えているのです。
このコースは全体的に信じられるか、そうでなくければ全く信じられないのです。
何故ならこれは全て真実か、そうでなければ全て間違いで、このコースの一部分だけを信じることは出来ないから。
そしてあなたは惨めさから完全に逃れるか、でなければ全く逃れられないのです。


天国の喜びか地獄の惨めさか(どちらか一つを選択/体験することが可能で)、どちらか選ぶことを躊躇して過ごせる中間地点は無いと理性はあなたに告げるのです。
あなたが天国を選ぶまで、あなたは地獄の中に、そして惨めさの中に居るのです。
天国の一部を持ち出してそれを幻想の中に織り込むことは不可能です。
そして幻想を一つでも持ったまま天国に入ることも不可能です。
救済者は裁判官(断罪者)には成れず、慈悲が断罪に成ることもありません。
そしてヴィジョンは断罪は出来ず、それは祝福しか出来ないのです。
救う役目を持っている者は救うのです。
彼(聖霊=救う役目を持っている者)がどのようにしてこれを達成するか、それはあなたの理解の外にあるのですが、「それ(救済)が何時行なわれるか」あなたが選択する必要があるのです。
何故なら、あなたが時間を作っており、あなたは時間に命令することが出来るのだから。
あなたは「あなたが作った世界」の奴隷ではないように、時間の奴隷でもないのです。

『「あなたが作ったもの」に「それを作った者(あなた)」を奴隷化する力がある』という幻想全体をより詳しく調べてみましょう。
これは分離を引き起こした信念と同じものです。
これは「思考者のマインドから思考が離れることが可能で、思考が思考者から異なったものに成り、思考者と対立するものに成ることが出来る」という無意味なアイディアなのです。
もしこれが真実であった場合、思考が(マインドの延長ではなく)マインドの敵に成るのです。
そしてここにわたし達は、今までもう何回も見て来た同一の基本的幻想の異なる形を見ているのです。
これが可能である限りにおいて、神の子が父のマインドを去り、自分を(神とは)異なるように作り、神の意志に反することが可能に成るのです。
これが可能である限りにおいて、「彼(神の子)が作った自己とその他全てのもの」が彼(神の子)のマスター(支配者)に成り得るのです。

この壮大な投射を見てみなさい。 しかし(怖れと共にこれを見るのではなく)「これは癒やされなくてはならない」という決断と共に(この壮大な投射を)見なさい。
あなたが「自分の創造者に反する意思を持って、創造者から離れていたい」と思っていない限り、「あなたが作ったもの」であなたに対して力を持っているもの(あなたの意志に逆らえるもの)は何もありません。
「神の子が神の敵に成れる」とあなたが信じている限りにおいて、『「あなた」の作ったもの』があなたのものであることが可能に見えるのです。
あなたは彼の喜びを惨めさと断罪し、それ(彼の喜び)を地獄に落とし、彼を異なるように作ろうとしたのです。
そしてあなたが作った全ての惨めさはあなた自身のもの{あなたが体験しているもの}なのです。
これが真実ではないと学んであなたは喜びませんか?
「真理は何一つあなたが作ったこのような幻想で取り替えられて(置き換えられて)はいない」と聞くことは良い知らせではないですか?

「あなた」の思考だけが不可能だったのです。 救済が不可能であることは在り得ません。
あなたの救済者を敵として見た上で、彼(救済者)を認識することは不可能です。
しかし神がそう望むのなら、彼を「彼そのもの(救済者)」として認識することが可能なのです。
神があなたの聖なる関係に与えたものが「(あなたが彼をあなたの救済者として認識している)そこ」に在ります。
何故なら、あなたに与えるようにと神が聖霊に与えたものを、彼(あなたの兄弟/救済者)が(あなたに)与えるのだから。
あなたに与えられている救済者を見ようとは思いませんか?
そして感謝と安堵の中で、「あなたが彼(兄弟)に与えた死刑執行人の役割」を「本来彼が持っている真実の役割」で取り替えたいとは思いませんか。
あなたが彼(兄弟)に与えようとしたものではなく、(あなたに与えるようにと)神が彼(兄弟)に与えたものを、彼(兄弟)から受け取りなさい。

(あなた達は自分達の間に体を挿入しており)その体を越えているものが、そして永遠に拡張し続ける眩しい円(サークル)から届いている黄金の光の中で輝いているものが、(神によって愛されている、神と同様に神聖な)あなた達の聖なる関係なのです。
それはとても静かに止まっており。時間の中に在ってそれでいて時間を越えており、不滅で、それでいて地上にあるのです。
その中にある力は何と偉大なのでしょう。
時間はその意志(黄金に光りの中で輝いているあなた達の聖なる関係の意志)を待っており、地上(地球)はそれが意図した通りに成るのです。
ここには分離した意志がなく、何かを分離しようという願いもありません。
この意志には例外はなく、これが意図することが真実なのです。
この赦しの下に持って来られた全ての幻想は優しく見越されて(見通されて)消えて行きます。
何故なら、その中心にキリストが生まれ変わっており(新しく生まれており)、世界を見透かすヴィジョンで彼(キリスト)の家を燈すのだから。

あなたもこの聖なる家を自分のものとしたい(共有したい)とは思いませんか?
ここには惨めさはなく、喜びだけがあるのです。
キリストと共にここに静かに住む為にあなたがする必要があるのは、キリストのヴィジョンを分け合う(共有する)ことだけです。
自分の兄弟を無罪(無垢)と見ようとする意欲が持てている全ての者に対して、速やかに喜んで彼(キリスト)のヴィジョンが与えられるのです。
もしあなたが罪の全ての結果/効果から完全に解放されたなら、この意欲の外に居残れる者は誰も居ません。
あなたはあなた自身(だけ)の為に部分的な赦しを得たいと考えていますか?
(しかし)惨めさの中に居残るようにまだあなたを誘惑している罪が一つでも残っている時に、あなたが天国に届くことが出来るでしょうか?
天国はパーフェクトに無垢な者の住家なのです。
そして神がそれ(天国)を「あなた」の為に創造したのです。
あなたの聖なる兄弟をあなた自身と同じように無罪と見て、彼(兄弟)があなたをそこ(天国)に導くことを許可しなさい。

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