Oct 2, 2011

Ch20-7

The Temple of the Holy Spirit
聖霊の寺院

神の子の意味は、彼と彼の創造者の関係内(神と神の子の関係内)だけにあるのです。
もしこれが他の所(神と神の子の関係の外)にあったなら、それは偶然に影響されることになりますが、これ(神と神の子の関係)以外は何もないのです。
これ(神と神の子の関係)は永遠で愛だけに溢れているのです。
しかし神の子は不聖な関係を自分と父の間に発明したのです。
彼(神の子)のリアルな関係はパーフェクトな合一(一つに繋がり統合されること)であり、不断に続き続けるものなのです。
彼(神の子)が自分で作ったものは、部分的で自己中心的で、細部に分離しており、怖れに満ちているのです。
父が作ったものは{神が創造した関係は}、完全に自己内包しており、自己拡張している(自らを差し伸ばしている)のです。
彼(神の子)が自分で作ったものは(神の子が神をおろそかにして作った関係は)、完全に自己破壊的で自己限定的なのです。

聖なる関係と不聖な関係の両体験を比べれば、その違いは明らかです。
聖なる関係は愛に基づいており、愛の上に静かに平安に置かれています。
体はその中(聖なる関係内)に侵入しません。
体が入って来ている関係は、愛に基づいたものではなく、偶像崇拝に基づいているのです。
愛は、知られたい、完全に理解してもらいたい、分かち合って(共有して)もらいたいと願います。
愛には秘密がありません。 愛は何かを分けて隠そうとは全くしません。
愛は目を開き落ち着いて日向を歩き、微笑みながら歓迎します。
それはシンブルで解り易い率直さを持っているので、それが{愛を見ているあなたに}誤解されることはありません。
偶像は分かち合いません。偶像は受け取り、しかし決して{愛を}返しません。
偶像を愛することは可能ですが、偶像が愛することは出来ません。
偶像は自分達に何が捧げられているか理解しておらず、その中に偶像が入って来ている全ての関係はその意味を失っています。
偶像に対する愛が愛を無意味にしているのです。
偶像達は秘密の中で生きており、日の光を嫌って、「偶像達が隠れられる/偶像達の秘密を隠せる」体の暗闇の中でハッピーなのです。
そして偶像達は関係を持っていません。何故なら自分以外の者はそこでは歓迎されていないのだから。 偶像達は誰にも笑いかけず、偶像達が自分達に笑いかけている者達を見ることはありません。

愛は(お日様から隠された解りづらいミステリーが存在している)暗い寺院を持っていません。
愛は力は求めず、関係を求めます。
体とは、関係を通して力を求めているエゴの選んだ武器なのです。
体の関係は不聖なものであるに違いなのです。何故ならエゴは「関係が何か」見ることさへないのだから。
エゴは、(その中に偶像がはびこっている)捧げ物だけの為にそれ(体の関係)を求めているのです。
それ(偶像の入った捧げ物)以外は全て捨て去られます、何故なら「{聖なる}関係が与えようとしている全てのもの」は無価値に見られるのだから。
宿無し(ホームレス)であるエゴは、出来るだけ沢山の体を集め、それらの中に自分の偶像を据えて、それら(体とその中の偶像)を自分を称える寺院として設定しようとします。

聖霊の寺院は体ではなく関係なのです。
体は分離し孤立した暗闇の欠片/秘密の隠れ部屋/卑小で無意味なミステリー/注意深く防御されている無意味な囲いなのですが、そこに隠されているものは何もないのです。
ここで(体の中で)不聖な関係はリアリティから逃れ隠れて、屑を探して食べそれ自身を生かし続けようとします。
それは兄弟をここの中に引き入れ、その偶像崇拝の中に兄弟達を引き止めようとします。
ここでそれは(体の中で不聖な関係は)安全なのです。 何故なら愛はここ(体/体の関係内)には入って来れないから。
聖霊は決して、「愛が入って来れない所」には自分の寺院を立てません。
キリストの顔を見ている者が「宇宙全体の中で唯一それ(キリストの顔)を見ることが出来ない場所」を自分の住家として選ぶでしょうか?

あなたは体を聖霊の寺院にすることは出来ません。 それは決して愛の玉座には成りません。
体は偶像崇拝者の家で、それは愛を避けるためのものなのです。
何故なら、ここで愛が怖ろしくされており、希望が捨てられているのだから。
ここで崇拝されている偶像達もまたミステリーに包まれており、それらを崇拝している者達から隔てられているのです。
この寺院はどのような関係にも捧げられておらず、どのようなリターン(返答/祝福)も返さないのです。
ここで分離のミステリーが畏怖と共に知覚されており崇敬されているのです。
「神が持とうとしていないもの」が、ここで神から隔たれて「安全」に保たれているのです。
あなたが理解していないのは「あなたは兄弟の中の『何か』を怖れており、しかしあなたは兄弟の中に『この何か』を見よう(認めよう)としておらず、『あなたが怖れているこの何か』が神を怖ろしく見せており神を解らなくしている」ということなのです。

偶像崇拝者は常に愛を怖れています。愛のアプローチ(呼び掛け/接近)程に彼らを怖れさせるものはないから。
愛に彼等(偶像を崇拝している者達)を引き寄せさせ、体を無視させなさい。愛は確実にそうします。
すると彼等(偶像崇拝者)は怖れて引き下がります。彼等の寺院の硬く見える地盤が揺れ崩れ出すのを感じながら。
兄弟よ、あなたは彼等(偶像崇拝者)と共に震えています。
しかしあなたが恐れているのは、(自由への)逃避を告げる使者なのです。
この暗い寺院はあなたの住家ではありません。
あなたの寺院が脅されることはありません。
あなたはもはや偶像崇拝者ではないのです。
聖霊の目的はあなたの(体ではなく)関係の中に安全に存在しています。
あなたは体から脱出しました。
あなたが今いる所に体は入って来れません。 何故なら聖霊が自分の寺院をそこに据えているのだから。

関係に程度の違いはありません。 関係は存在しているか、存在していないか、そのどちらかのみです。
不聖な関係は関係ではありません。
それは隔離状態なのですが、そう見えていないだけなのです。 それだけなのです。
(神とあなたの関係を不聖にしようとした)狂気のアイディアが可能に見え出した瞬間に、全ての関係が無意味にされたのです。
この不聖な瞬間に時間が生まれ、この狂気のアイディアを住まわせる為に体が作られ、それにリアリティの幻想が与えられたのです。
だからこれ(神とあなたの関係を不聖にしょうという狂気のアイディア)に住家が与えられている様に見えており、(あなたは)この住家の中に暫く留まってから消え去るように見えているのです。 
(リアリティに対抗している)この狂気のアイディアを一瞬以上に渡って保つことが可能でしょうか?

偶像は跡形も無く消え去るべきなのです。
偶像達の力として見えている不聖な瞬間は雪のようにはかなく、しかし雪のような可憐さは持ち合わせていません。
あなたは、聖なる瞬間の永遠の祝福とその無限の恩恵の代わりに、この代用品を求めるのですか?
あなたは(平和と理解を差し出している)聖なる瞬間のではなく(とても力強く見える、全く間違った理解に基づいた、誤った魅力にはまっている)不聖な関係の悪意を求めるのですか?
(もし違うなら)体を退けて、それを静かに超越し、あなたが本当に求めているものを歓迎するために昇って行きなさい。
そして彼(聖霊)の聖なる寺院から、「あなたが目覚めて来た所」を振り返るのは(今まであなたがいた所を思い出そうとするのは)止めなさい。
何故なら「それらの幻想を超越して置き去って来たマインド」を魅惑出来る幻想は無いのだから。

聖なる関係とは「リアリティの中で神の子が父と持っている本当の関係」を反映しているものなのです。
聖なる関係は、この関係(神と神の子の関係)の中にあり、その確信(確実性)の中でそれは永遠に継続し続けるのです。
聖なる関係の確実な基盤は真理によって永遠に支えられており、それに対して愛が優しく笑いかけ、そして愛が愛自身に対して優しい祝福を捧げているのです。
ここで、不聖な瞬間が「聖なる者が安全に帰って行くことの安心」で置き換えられるのです。
ここで真の関係への道が優しく開かれ、あなた達は一緒にそこを通り抜け感謝しながら体を後にして、不滅の腕の中に抱かれるのです。
愛の腕はあなた達を迎える為に開かれており、あなた達に永遠の平和を与え続けるのです。

体はエゴが持っている偶像なのです。 罪の信念が肉体として作られ、そこ(肉体)から外に罪の信念が投射されているのです。
これ(罪の信念とその投射)が、肉の塊に見えるものをマインドの周りに作っているのです。
体はマインドを空間内の小さな点に囚人として閉じ込め、死に縛り付け、僅かの間だけ溜息をついて嘆き、そしてそのマスターの名誉の為に死ぬのです。
この不聖な瞬間が生命として見られているのです。
嘆きの刹那、水のない渇いた砂の小さな島、永遠の忘却に向けられた迷走。
ここで神の子は暫く止まって、死の偶像に自分の献身を捧げ、次に進むのです。
ここで彼は生きているというよりは、死んでいるのです。
しかしここで彼は偶像崇拝と愛のどちらかを選び直すのです。
ここで彼は、この瞬間を体への捧げ物として過ごすか、それとも体からの自由を受け取るか、どちらか選ぶチャンスを得るのです。
ここで彼は聖なる瞬間を受け入れて、それを「以前選んだ不聖な瞬間」と取り替えることが出来るのです。
ここで彼は「{聖なる}関係は自分の破滅ではなく救済なのだ」と学べるのです。
これを学んでいるあなたは、まだ怖れているかもしれませんが、もう縛り付けられて身動き出来なくなってはいません。
聖なる瞬間は今のあなたにとって(その反対物に見えている)不聖な瞬間よりも偉大な価値を持っており、「自分は本当はそれ(聖なる瞬間)だけを求めている」とあなたは学んだのです。

今は悲しんでいる時ではありません。
あなたは混乱しているかも知れませんが、気落ちしている場合ではありません。
あなたはリアルな関係を持っており、それには意味があるのです。
それはあなたと神のリアルな関係を似ており、同等なもの同士はお互いと似ているのです。  {「あなた達のリアルな関係(聖なる関係)」は「あなたと神の関係」を反映しており、同等なのです。}

偶像崇拝は過去であって、無意味なのです。
もしかしたら、まだあなた達はお互いを少し怖れており、神への怖れの影がまだ残っているかもしれません。
体を越えた「一つの真の関係」を与えられている者にとって、それが何だというのでしょうか?
彼等が(「一つの真の関係」を与えられている者達が)キリストの顔を見ることから押し留められ続けることが可能でしょうか?
そして彼等が「彼等と父の記憶」を自分達自身から外しておくことが出来るでしょうか?
父の愛の記憶を自分達の意識から遠ざけておくことが出来るでしょうか?

No comments:

Post a Comment