Oct 10, 2011

Ch21-3

The Responsibility for Sight
視界/視力のための責任

このコースを学ぶためにどれだけ小さなもの{譲る意欲}があなたから求められているか、わたし達は繰り返し言って来ました。
これはあなたの関係全体を喜びと変換する為にあなたが持つ必要がある小さな意欲と同じものです。
あなたが聖霊に捧げるこの小さなギフトのお返しとして、聖霊があなたに全てを与えるのです。
救済はこの非常に小さいものにかかっている(依存している)のです。
マインドのこの僅かな変化によって、磔(受難)が復活に変るのです。
そして真実であるこれ(救済)はシンプルで、これは完全に理解出来るに違いないのです。
これを否定し捨てることも可能です。 しかしこれ(救済)が解り難く理解出来ないことは不可能です。
もし今あなたがこれ(マインドを変化させる小さな意欲/救済)を選ばず否定しているとしたなら、それはこれが解り難いからではなく、あなたの裁き(判断)によってこの少しのコスト{自分の意志を譲る意欲}が平和の為の支払いとしては高すぎると見えているからです。
ヴィジョンの為にあなたがしなくてはならないのはこれ(平和のコストとしてあなたの裁きを手放し聖霊に譲ること)だけなのです。
これによりハピネス/痛みからの解放/罪から完全に抜け出ることなど全てがあなたに与えられるのです。

次のことだけを(それに対して何も保留することなく)言いなさい。何故ならここに救済の力があるのだから:
「私は私が見ているものに対して責任を持っています。私が体験しているフィーリングは私が選んでいるのです。 そして私は自分が達成しようとしているゴールを選んでいます。そして私に対して起こっているように見えている全てのことは「私が求めたものであり、私のこの求めによって私が受け取ったもの」なのです。」

あなたに対して行なわれていること(あなたが直面している事態)に関してあなたに助けが与えられていない(なすすべが無い)と考えて、あなた自身をあざむき続けるのは止めなさい。
あなたが間違えており、あなたの間違えの結果の全てが消え去ることを認めなさい。
神の子が自分の外の出来事によって為す術なく受動的に動かされる(影響される)ことは不可能です。
彼(神の子)の前で起こっている出来事が彼の選択でないということは不可能です。
神の子が自分のことを偶然や偶発(チャンスやアクシデント)の中に存在しているものと見ている全ての状況内であっても、彼(神の子)の選択の力が決定権を持っているのです。

神が創造した宇宙の中では偶然や事故は不可能です。そして神が創造した宇宙の外には何もありません。 苦しんでいるなら、あなたはあなたのゴールが罪だと決めているのです。 {苦しむこと自体が、あなたが罪を自分のゴールとして決めていることなのです。}
ハッピーで在りなさい、そうすればその時あなたは「あなたの為に神を選ぶ彼(聖霊)」に選択を任せているのです。
これがあなたが聖霊に捧げる少しのギフトなのです。 そしてあなたが「あなた自身」に対してこれ(ギフト)を与えられるように、聖霊はこれ(ギフト)をあなたに与えているのです。
何故ならこのギフトにより、あなたの救済者を解き放つ力があなたに与えられ、このようにして解き放たれた救済者があなたに救済をもたらすのだから。

だからこの少しの捧げもの(聖霊に譲る意欲)を惜しまないでください。
これを惜しんでしまえば、あなたが今見ている世界がそのまま保たれてしまいます。
それ{あなたがまだ選んでいる世界/定義}を手放せば、あなたが見ている全てのものもそれと一緒に消えて行きます。
これ程わずかな小さなものの代わりにこれ程沢山のものが与えられることは今までありませんでした。
聖なる瞬間の中で、この交換が行なわれ保持されるのです。
ここにおいて(聖なる瞬間の中で)「あなたの求めていない世界」が「あなたの求めている世界」に変換されるのです。
そしてここにおいて(聖なる瞬間の中で)、あなたの求めている世界が(その世界をあなたが求めているが故に)あなたに与えられるのです。 
しかしこれが起こるためには、まず第一にあなたの求める力が認識される必要があるのです。
あなたは、あなたの求める力の弱さではなく、その力強さ(実力)を受け入れる必要があるのです。
あなたは「世界を作る力があるものは、それを手放すことも出来る」と知覚認識する必要があるのです。
そして「(自分が)間違えていたことを見る意欲があるなら、修正を受け入れることが出来る」と認める必要があるのです。

あなたが見ている世界は、あなたが正しいということの怠惰な証言者なのです。
そしてこの証言者は気が狂っているのです。
あなたはその証言を躾け操作しており、その証言があなたに返された時、あなたはそれに聞き入り、それが見たことが真実なのだとあなた自身を説き伏せているのです。
あなたはこれをあなた自身に対して行なったのです。
これだけを見なさい。 するとあなたは、あなたの「見ていること」の基礎がどれだけ循環論法(結論が先に決まっている状態)に依存しているか見るでしょう。
これがあなたが自身と自身の兄弟に与えたギフトだったのです。
だから、このギフトが彼(兄弟)から取り払われ、真理で置き換えられることを求められるように成りなさい。
すると、あなたは彼の中に変化を見て、その変化があなた自身の中でも起こっていることを見るでしょう。

もしかしたらあなたは、この少しの捧げもの(あなたが聖霊に手渡すべき分離の意図)を与える必要を感じていないかもしれません。
ならば「それが何か(あなたが何を捧げて/何を放棄するように奨励されているのか)」より詳しく見てみなさい。
この中に示されている「分離を手放してそれを救済で取り替える」という交換の全過程をシンプルに見てみなさい。
エゴの全ては「神の子の意志無くして神の子に何かが起こることが可能だ」というアイディアに基づいています。
そして(神の子の意志から分離することが不可能な)創造者の意志無くして神の子が存在出来るというアイディアが{分離の中で、あなたがまだ見ている世界の中で}表明されているのです。
神の子は(永遠であるはずの父の意志に背いて)神の意志をこれ(分離のアイディア)で代用しよう(置き換えよう)としたのです。
上記の文章は「神を無力にする力が彼(エゴ/分離を信じている神の子)にある。だから神から力を奪って、『彼(神の子)のために神が意図しているもの』を彼(神の子)自身から取り外してしまえる。」という主張なのです。

あなたはこの狂気のアイディアを自分の聖壇の上に奉って、その聖壇を崇拝しているのです。
そしてこのアイディアを脅かす全てのものは、あなたの信心を攻撃しているように見えるのです。 何故ならここでこのアイディアに投資がなされているから{何故ならあなたの祭壇の上に信心が与えられているから}。
あなたのことを不信心と考えるのは間違いです。何故ならこれ(分離のアイディア)にあなたが与えている信念と信頼はとても強いのだから{あなたはとても信心深いのです}。
聖霊はとても簡単に「神聖に対する信心」と「神聖を見るヴィジョン」をあなたに与えることが出来ます。
しかしあなたはこのギフトを供えるべきスペース(場所)を祭壇の上に持っていません。
このギフト(聖霊があなたに与える「神聖に対する信心」)が置かれるべき所に、あなたは何らかの偶像を置いてしまっています。
このもう一つの意志(あなたの祭壇の上にある偶像)が、何が起こるべきかあなたに命令しているように見えており、あなたはその命令にリアリティを与えているのです。
だから「そうではない(分離は起こっていない)とあなたに示している物事」は全てリアルでは無いように見えているのです。

あなたに求められているのは真理の為のスペースを空けることなのです。
あなたはあなたの理解を超えたことをするように求められているのではありません。
あなたに求められていることは、それ(真理/聖霊)を受け入れることだけです。
そしてあなたが(リアリティに)差し挟んでいる妨害を止めて、それ自体で起こることを起こらせるのです。
そして「あなたが捨てたと思っている存在」が再度認識出来るようになれば良いのです。
一瞬あなたの祭壇{あなたの意識の中のハート}の上にあなたが置いているものを全て取り取り除くことが出来たなら、そこに本当にあるものが確実に見えるのです。
聖なる瞬間は、創造の瞬間ではなく、認識の瞬間なのです。
何故なら認識はヴィジョンと裁き(判断)の保留が可能にするものなのだから。
そうして初めて内側を眺めて、推量や予断(裁き)を全く抜きに、「そこに在るに違いないもの」を確実にそこに見ることが可能になるのです。

{分離/エラーの}解除はあなたがすることではありません。しかしそれを自分の中に受け入れるかどうか選択することはあなた次第です。
信心と熱望は手を取り合って一緒にやって来るものです。何故なら人々は自分が欲しているものを信じるのだから。
「エゴは希望的観測を使って自分が欲しているものを得ようとすること」に関してはすでに述べています。
「(求めるべき)ゴールをリアルで可能に見せること」が「求めることの力(そして信心の力)」を明確にデモンストレートして見せる最高の方法です。
リアルでないことに対する信心は(狂気のゴールに合わせる為に)リアリティを調整してしまうことに繋がります。
罪のゴールは、罪の目的{分離}を正当化する為に、怖ろしい世界に対する知覚認識を起こさせて(誘発して)しまいます。
あなたは、あなたが欲していることを見るのです。
そして、あなたが欲していることがリアルで在り得なかったなら、あなたは色々な調整をそこに導入して、それをリアルに(見えるよう体験出来るように)してしまうのです。

ヴィジョンが否定されている時には、原因と結果の混乱が避けられないのです。
ヴィジョンが否定されてしまっている時には、結果の原因を解り難くすることが目的に成ってしまい、結果があたかも原因であるように見えてしまうのです。
このようにして結果が(原因から)独立して見えることが、結果をそれ自体で成り立っているように見せており、それによって結果が出来事や感情の原因として働くことが出来るようになるのです。 そしてこの状態を作った者は、結果がこれらの感情や出来事を起こしていると考えるようになるのです。
かなり前にわたし達は、あなた達が自分達自身の創造者に成ろうと願ったこと(そして神の子ではなく神/父に成ろうとしたこと)に関して話しました。
(結果を原因から独立させて結果を原因のように見せようとする)このこともそれと全く同じ望みなのです。
子が結果で、それが自分の原因(父/源)を否定しようとしているのです。
すると子が(リアルな結果を生んでいる)原因のように見えはじめるのです。

原因なく発生出来る結果はありません。だからこの二つを混乱することは、その両方を理解出来なくしてしまうことです。
「あなたが見ている世界をあなたが作ったのだ」と理解することは「あなたはあなた自身は創造しなかったのだ」と理解することと同じ位重要なのです。
それらはつまるところ同じ間違えなのです。
あなたの創造者によって作られていないものは、あなたにどのような影響も与えていません。
そしてあなたが作ったものが「あなたが何を見ていて何を感じているか」あなたに告げられると考えられており、このことにあなたの信心を与えているなら、あなたは自分の創造者を否定しており、(神ではなく)自分が自分を作ったのだと信じているのです。
何故なら、もし「あなたの作った世界」にあなたを作る力があると考えているなら、あなたは父と子を混乱しており、結果と源(原因)を混乱しているのだから。

子の創造は、父の創造に似ているのです。
しかしそれらの創造を子が作っている時、子が自分自身を欺いて、自分が自分の源から独立しているとは(本来は)考えないのです。
神の子と源/父との合一(ひとつになっている状態)が神の子の創造のソース(原動力)なのです。
源から離れたなら、神の子は創造の力を持っておらず、神の子が作っているものは無意味になってしまうのです。
それは(神の子が源/父から独立して行おうとする創造は)神の創造に対してどのような変化ももたらさず、それは完全にその創造者の狂気に依存しており、この狂気を正当化することは出来ないのです。
あなたの兄弟は「あなたと彼(あなたの兄弟)が共に世界を作った」と考えています。
このようにしてあなたの兄弟は(も)創造を否定しているのです。
あなたの兄弟はあなたと一緒に、「自分が作った世界」が自分{卑小な存在としての肉体}を作ったのだと考えているのです。
このようにしてあなたの兄弟は彼自身がこれ(あなた達が見ている世界)を作ったことを否定するのです。

しかし真実あなた達両者は愛に溢れている父によって創造されており、父はあなた達を一緒にひとつのものとして創造したのです。
そうではないと「証明」しているものを見たなら、あなたは自分の聖なるリアリティを否定しているのです。
あなた達の間に入って、あなた達をお互いからそして父から分離させているように見えている全てのものは、あなた達が秘密裏に作ったものなのです。 それを{聖霊に}譲渡しなさい。 その瞬間にあなた達は解放されるのです。
その時分離の源が暴かれたので、分離の全ての結果が消え去るのです。
結果が源から独立しているように見えることが、あなた達を閉じ込めているのです。
この幻想は(結果が源から独立しており結果が原因になれるという幻想は)、「あなたを創造している源、あなたが決してそこから去らなかった源」からあなたが独立しているという幻想と同じものなのです。

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