Oct 27, 2011

Ch22-4

Reason and the Holy Relationship

理性と聖なる関係

思考システムの中に理性を導入することが解除の始まりです。
何故なら理性とエゴは相反するものだから。 そしてそれら(エゴと理性)をあなたの意識の中で共存させることは不可能だから。
理性のゴールはプランを作ることで、従ってそれ(理性が作ったプラン)は明白なのです。
あなたは理性を「見る」ことが出来るのです。
これは言葉の遊び(言葉のあや)ではなく、(あなたの理性を見ることとは)意味のあるヴィジョンを見始めることなのです。
ヴィジョンとは感覚です。 ヴィジョンが体の視界ではなかった場合、それは理解されるに違いないのです。 何故ならそれ(ヴィジョン)は明快で、明白なものは不明瞭ではないのだから。
ヴィジョンは理解することが出来るものなのです。
ここにおいて理性とエゴが決別しており、それぞれ別の道を行くのです。

エゴがこれ(ACIM)全体を続ける為には、「あなたはこのコースを学ぶことが出来ない」とエゴが信じ続ける必要があるのです。
(エゴの)この信念を共有したなら、理性があなたのエラーを見られなくなってしまい、それらのエラーを修正することが出来なくなってしまいます。
何故なら、理性はエラーを見通して「あなたがリアルだと考えていたものはリアルではない」と告げるのだから。
理性には罪とエラーの違いが見えるのです。 何故なら、理性は修正を求めているのだから。
だから「修正不可能だとあなたが思ったもの」は修正出来るものなのだと、理性はあなたに告げるのです。
そして「修正不可能だとあなたが思ったもの」はエラーに違いないと理性はあなたに言うのです。
修正に対するエゴの反対が、罪に対する固まった信念とエラーに対する無視を引き起こしているのです。
それ(エゴ)は修正出来るものは何も見ません。

こうしてエゴは断罪し、理性は救うのです。
理性そのものが救済ではなく、それは平和への道を整え、修正可能なマインド状態にあなたを導くのです。
罪は鍵の掛かった重い門のように設定されている障害(ブロック)で、平和への道を阻んでいます。
理性の助けなくしてそれを見たなら、誰もそこを通ろうとはしません。
体の目は、それ(罪)をとても厚く堅い岩石のように見て、それを通り抜けようとすることは狂気だと判断します。
しかし理性はそれ(罪)を容易に見通します。 何故ならそれはエラーなのだから。
(本当はエラーである)罪が取る形がその空虚さを理性の目から隠すことは出来ません。

エラーの形(フォーム)だけがエゴを魅了するのです。
エゴは、意味は認識せず、意味がそこに在るか無いかも知らないのです。
体の目に見えるもの全ては(知覚の)間違いであり、(「全体が各部分に与えている意味」が抜き取られている)全体の歪んだ破片なのです。
しかし間違いはその形がどうであろうとも修正出来るのです。
罪とは、エゴがあがめる特別な形のエラーなのです。
エゴは全てのエラーを保存して、それを罪として作るのです。
何故なら、ここにエゴ自身の安定(エゴが作った揺れ動く世界の中の重い錨)があるのだから。
その(エゴが作った罪の)上にエゴの教会が立てられている「いしずえ」があり、そこでエゴの信者達は体に縛り付けられており、体の自由が自分達の自由なのだと信じているのです。

理性は「エラーの形がそれ(エラー)を間違えにしている訳ではない{エラーの特定の形態がそれをエラーにしているのではない}」とあなたに告げます。
「形が隠しているもの」が間違いであった場合、形が修正を妨害することは出来ません。
体の目は形だけを見るのです。体の目は「体の目が見るように作られているもの」を越えて見ることは出来ないのです。
そして体の目はエラーを見るように出来ており、エラーを越えて見ることは出来ないのです。
体の目はとても奇妙な知覚です。何故ならそれは幻想しか見えず、罪の岩石を越えては見えず、無の外側の形に留まってしまうのです。
(全ての外側にある)この歪んだ形のヴィジョン(視界)にとって、あなたと真理の間に立っている壁{罪と考えられているエラー}は全く真実なのです{全く真実に見えるのです}

(あたかもそれが硬い壁であるかのように)虚無によって止められてしまう視界に真理を見ることが出来るのでしょうか?
それ(体の目)は形だけが知覚されるということを保障する為に作られており、形によって止められてしまうのです。
これら(体)の目は、見ないように作られており、それが見ることは決してないのです。
何故なら体の目が体現しているアイディアは、このアイディアを作った者の下を去っておらず、それら(体の目)を通して見ているのは、その(体の目というアイディアの)作者なのだから。
この作者のゴールが「見ないこと」以外の何で在り得るのでしょうか?
体の目はこの目的(見ないこと)の為のパーフェクトな手段なのです。 体の目は「見るための手段」ではないのです。
体の目は外側に依存(由来)しており、外側を超えては行けないことを考慮してみなさい。
体の目は無で止まってしまい、それが形を見越して意味を見取ることは出来ないと気付きなさい。

形の知覚ほどメクラなものはありません。
何故なら形を見ることは、理解が不明瞭にされていることを意味しているのだから。
間違いだけが異なった形を持っており、だから間違いは騙すことが出来るのです。
形を変えることが可能なのは、形が真実ではないからです。
形はリアリティでは在り得ないのです。 何故なら形は変えることが可能なものだから。
「形がリアリティでないなら、それは幻想に違いなく、それ(形)はそこに存在しているのではない」と理性があなたに告げるのです。
もしあなたがそれ(形)を見ていたなら、あなたは間違っているに違いないのです。何故なら、あなたはリアルでは在り得ないものをあたかもそれがリアルであるかのように見ているのだから。
「そこに存在/実在していないもの」を超えて{実在しているものを}見ることが出来ないものは{体の目は}、歪んだ知覚に違いないのです。そしてそれ(歪んだ知覚)は幻想を真理として知覚せざる得ないのです。 であればそれ(体の目/歪んだ知覚)に真理が認識できるでしょうか? (と理性があなたに告げるのです。)

彼(あなたの兄弟)の間違いの「形」が、彼(彼の神聖があなたのものなのです)をあなたから遠ざけてしまわないようにしなさい。
「体の目が見ていること」によって「彼の神聖のヴィジョン」があなたから離れてしまわないようにしなさい。「彼の神聖のヴィジョン」を見ることがあなたの赦しをあなたに示します。
兄弟に対するあなたの気付き(意識)が、兄弟の罪に対する(そして兄弟の体に対する)あなたの知覚認識によってブロックされてしまわないようにしなさい。
あなたが彼(兄弟)の体と関連付けたもの(罪が可能だとあなたが信じているもの)以外に、あなたが攻撃しようとするものが彼の中に在るでしょうか
{あなたが兄弟の中に見て攻撃しようとしているのは「あなたが兄弟の体と関連付けたもの/罪を犯すことが可能だとあなたが信じているもの」だけなのです。}
彼のエラーを超えた所に彼の神聖があり、「あなた」の救済があるのです。
あなたは彼に彼の神聖は与えておらず、あなたの罪を彼の中に見て、あなた自身を救おうと試みたのです。
しかし彼の神聖があなたの赦し(あなたが得る赦し)なのです。
その人(その人の神聖があなたの救済なのです)を罪深くして、「あなた」が救われることが可能でしょうか?

聖なる関係は、それがどれだけ新しく生まれたばかりでも、何よりもまず神聖を尊ばなくてはならないのです。
不聖な価値(価値観)は混乱と無意識を生みます。
不聖な関係の中では、それぞれの人達がお互いの罪を正当化しているように見えている故に、それぞれの人達が尊ばれているのです。
自分の意志に反して罪を犯す衝動を、彼(不聖な関係内の人)は他者の中に見ているのです。
そして彼は他者に対して自分の罪を被せ、自分の罪を永続させる為に彼(他者)に惹き付けられるのです。
だからそれぞれの人達が(罪をリアルにしようと熱望することにより)自分達が罪を起こしていることを見ることが不可能に成ってしまっているのです。
しかし理性は聖なる関係をそれそのものとして見ます。 
聖なる関係とは、お互いが一つのものとしてハッピーに癒やされるよう、修正に対してお互いに喜んで(自分達の)エラーを差し出している「共通のマインド状態」です。

そしてあなた達は、あなた達とキリストの顔の間に罪のヴェールが掛けられている、この聖なる場所に立っているのです。
これ(罪)を一緒に持ち上げなさい。何故ならこれはあなた達の間に掛かっているヴェールでしかないのだから。
あなた達が別々に一人でこれを見たならこれは硬いブロックに見えます。 そしてあなた達をいま隔てっている(分離している)布がどれだけ薄いか気付くことも出来ません。
しかしあなた達の意識の中でこれは殆ど終っているのです。
そして平和は、ヴェールの前のここでさえも、あなたに届いているのです。
その後(ヴェールを通り越した後)で何が起こるか考えて見なさい!
キリストの愛があなた達の顔を照らし出し、光を必要としている暗い世界の中にその輝きを届けます。
そしてこの聖なる場所から彼はあなたと共に{聖なる場所/状態に}帰ります。この聖なる場所を去ることなく、そしてあなたのもとを去ることもなく。

あなたは彼(キリスト)のメッセンジャーに成って、彼の下に彼自身を返すのです。
「彼(キリスト)と一緒に歩んでいる者」に対してあなたが見る愛らしさを考えてみなさい。
そしてあなた達がお互いの中に見る美しさを考えてみなさい。
(あなたが一人で歩いて来た、これ程長く孤独な旅の後で)一緒に居るあなた達がどれだけハッピーになるか(考えてみなさい)。
天国の門は今あなた達の為に開かれており、あなた達は今悲しみ(に暮れている人達)に対して開かれているのです。
そしてあなた達の中のキリストを見て喜ばない者は居ないのです。
ヴェールを越えてあなた達が見ている光景は何と美しいのでしょう。
この光景によってあなた達は(あなた達が以前そうであったように)くたびれ果てた数々の目に光りをもたらすのです。
あなた達が彼等の中に入って行って、キリストの赦しを捧げて、罪に対する彼等の信心を追い払うことを見た時、彼等はどれだけ感謝することでしょう。

あなたが作った全ての間違いを、{聖なる瞬間の中で、聖なる関係の中で}他の人達があなたの為に優しく修正するのです。
何故なら、彼(他の人達)の視界の中では、あなたの愛らしさが彼の救済であり、彼はそれを脅威から守るのだから。
それぞれの人達が(あなた達の間に立ち昇って来ているように見える全てのことからお互いを守る)力強い防御者(守護者)に成るのです。
こうしてあなた達は私と一緒に(まだこのメッセージが全ての人々に与えられていない)世界の中を歩くのです。
何故ならあなた達は、このメッセージが受け取られるようにする為にここに居るのだから。
神のオファー(招待)はいまだ開かれており、それは受け入れられることをまだ待っているのです。 
これ(神のオファー/メッセージ)を受け入れたあなた達により、これは受け取られ、
あなた達の繋がった手の中にこれがシッカリと与えられるのです。
何故なら、これ(神のオファー/メッセージ)を分け与えたあなたが、これの守護者に成ったのだから。

神の愛を分け合っている者達全員に対して恩寵が与えられており、彼等は自分達が受け取ったものを与えることによって恩寵を受け取るのです。
これにより彼等は恩寵が永遠に自分達のものだと学ぶのです。
それら(神の恩寵)の訪れの前に、今まで立ち昇り恩寵の道を塞いでいたように見ていてた全ての障害が克服されて、全ての障害が消え去るのです。
あなた達が一緒にヴェールを持ち上げることが、あなた達以外の人達の為にも真理への道を開くのです。
自分達のマインドから幻想を取り外させている者達は、この世界の救世主なのです。
彼等は自分達の贖い主(救済者)と一緒に歩んでおり、そして彼(贖い主)の希望と自由と「苦しみからの解放」のメッセージを「奇跡によって救われることを必要としている全ての人達」のもとに運んでいるのです。

この奇跡を全ての人達に捧げることは何と容易なのでしょう!
この奇跡を自分の為に受け取った者は誰も、これを(奇跡を全ての人達に捧げることを)難しいとは思いません。
何故なら、奇跡を自ら受け取ることによって、人はその奇跡が自分だけに与えられていたのではないと学ぶのだから。
一緒に受け取ること、そして受け取ると同時に与えること。
これが聖なる関係の役割なのです。
ヴェールの前に立っている状態では、まだこれは難しく見えます。
しかしあなた達の繋がった手を伸ばしてこの重く見えるブロック(ヴェール)を触ったなら、あなた達の指が容易にこの空っぽの中を通り抜けて行くことをあなた達は学ぶのです。これは硬い壁ではないのです。
あなたと「(あなた達が共有している)聖なる自己」との間に立ちはだかっているのは幻想だけなのです。

No comments:

Post a Comment