Oct 7, 2011

Ch20-9

The Vision of Sinlessness
無罪のヴィジョン

真理は、あなたの熱望を通して、あなたに対して修復されるのです。 真理以外のものに対するあなたの熱望によって、真理があなたから失われてしまったように。
(真理以外のものを尊ぶことによりあなたが閉めてしまった)聖なる場所を開きなさい。そうすれば失われたものが静かに帰って来ます。
それ(失われたと思われていたもの)はあなたの為に取って置かれているのです。
ジャッジメント(裁き)が行なわれていなかったなら、ヴィジョンは不必要だったことでしょう。
今この(ジャッジメントの)全ての解除を求めなさい。 そうすれば、それが(ジャッジメントの解除が)あなたの為になされます。
あなたは「あなた自身のアイデンティティ」を知りたいと思いませんか?
あなたは「自分の疑いを確信と取り替えたい」とは思いませんか?
あなたは「惨めさから自由に成り、再び喜びを学びたい」とは思いませんか?
あなたの聖なる関係がこれら全てをあなたに捧げています。

そしてこの聖なる目的はあなたが作ったものではないので、「そのハッピーエンドがあなたのものになる方法」もあなたが作ったもの(作るもの)ではないのです。
「求めれば与えられるもの」の中でただ喜びなさい。
そして方法や結果/目的を自分で作る必要があると考えるのは止めなさい。
これら全てが(自分の兄弟を無罪に見ている)あなたに与えられています。
これら全て(方法と結果/目的)は与えられており、「それを受け取りたいというあなたの希望」だけを待っているのです。
ヴィジョンは「見ることを求めている者達」に自由に与えられるものです。
あなたの兄弟の無罪は輝ける光の中であなたに与えられています。それを聖霊のヴィジョンで眺めて、彼(兄弟)と一緒に光の中で喜びなさい。
聖霊と分け合っている平和の目的を真摯に願い「救済が何かという理解」において彼(聖霊)と一つである者達のもとには平和が訪れます。

だからあなたの兄弟を無罪と見る意欲を持ちなさい。キリストがあなた達のヴィジョンの中に立ち上がってあなた達に喜びを与えられるように。
そしてあなたの兄弟の体にどのような価値も与えるのは止めなさい。 あなたが兄弟の体に価値を与えていることが、彼を「彼の幻想」に縛り付けています。
彼の無罪を見ることが彼の願いで、それが「あなた」の願いでもあるのです。
{「あなたが兄弟の無罪を見ること」が聖霊の願いで、それが「あなた」の願いでもあるのです。}
そしてあなた達の関係の中で神の子を祝福し、「あなたが彼(兄弟)のために作ったもの」を彼(兄弟)の中に見ることは止めなさい。

聖霊は「神が意図して与えたこと」があなた達のものになることを確約しています。
これがあなた達の今の目的なのです。そして「これ(聖なる目的)をあなたのものにしているヴィジョン」は(あなた達に)与えられる準備が出来ています。
あなた達は「体を見ないことを可能にするヴィジョン」を持っています。
そして{このヴィジョンを通して}あなた達がお互いを見た時、あなた達は「自分達の父に捧げられている祭壇」を見ます。
それは天国と同じように神聖で、純潔の光りで輝いており、その上にあなた達が置いたユリと共にキラキラしています。
あなたにとってこれよりも価値あるものがあるでしょうか?
何故あなたは体が「神の子の為のより良い住家」だと思っているのでしょうか?
何故あなたは真実ではなく体を見ようとしているのでしょうか?
どうして破壊のエンジンを好み、聖霊が提供している聖なる家(聖霊があなた達と共にそこに住んでいます)をそれ(破壊のエンジン/体)で取り替えてしまおうとするのでしょうか?
体は弱さ/傷付き易さ/力の損失のサイン(印)なのです。このような救済者があなたを助けられるでしょうか?
ストレスと助けの必要に面している時、あなたは「助けられないもの/無能なもの」に助けを求めるのですか?
力が必要な時「どうしようもなく卑小なもの」が最適な選択でしょうか?
裁きがあなたの救済者を脆弱にしているように見えます。
しかしあなたは彼(あなたの救済者)の力を必要としているのです。

ヴィジョンに解決出来ない問題/状況/イベント/謎はありません。
ヴィジョンによって見られた時{ヴィジョンを使って全てを眺めた時}、全ては贖われる(救済される)のです。
何故なら、これはあなたの視界ではなく、この視界は「(この視界を持っている)彼によって愛されている法則」をもたらすのだから。
ヴィジョンを使って全てを眺めたなら、全ては(彼/聖霊の落ち着きと確実な視力によってそれらに与えられている法則に従い)優しく相応しい場所に置かれます。
彼(聖霊)が見ている全てのものの結果は常にハッキリしています。
何故なら、それ(結果)が未調整のまま{歪みなく}に見られた場合、それ(結果)は彼(聖霊)の目的を満たしていて、それ(結果)は目的を満たすようパーフェクトに成っているのだから。
彼(聖霊)の優しい眼差しの下で、破壊的なもの/状況が善良に成り、罪が祝福に変るのです。

「修正する力」を使っている「体の目」に何が知覚出来るというのでしょうか?
体の目は罪に対して(視界を)調整してしまい、罪を全く無視出来なくしてしまうのです。 そして全てのものに対して罪を見て、全ての場所に罪を見るのです。
体の目を通して見たなら、全てのものがあなたの前で断罪されるのです。
あなたを救える全てのものを(体の目を通して見ている)あなたは決して見ないのです。
{体の目を通して見ている限り}(あなたの救済の源である)あなたの聖なる関係は意味を失ってしまい、その一番神聖なる目的達成の方法が失われてしまうのです。
裁きは「玩具/気まぐれ/あなたの想像の中で死のゲームを怠惰に弄ぶこと」にしか過ぎません。
しかしヴィジョンが全てを正し、「天国の法の優しい諭し」の中に全てを持って来るのです。

もしあなたがこの世界を幻覚の中で認識しているとしたらどうでしょう?
もし本当にあなたが、自分で{自分に見えている}世界をでっち上げているとしたらどうでしょう。
その世界の中に住んでいる様に見えている人達が、そこで罪を犯し死んで行く者達が、攻撃し殺しお互いを破壊している者達が全くリアルではないと、もしあなたが理解したならどうなるでしょう?
この見方(この前提を)受け入れたなら、あなたは自分が見ているものに信心を与えることが出来ますか?
あなたはこれを(このような世界を)見続けたいと思いますか?

幻覚は、それが幻覚だと理解された時に消滅します。
これが癒やしであり、これが薬なのです。
それら{あなたが体の目で見ている世界/世界に対するあなたの概念}を信じるのを止めたなら、それらは去って行きます。 そしてあなたが認識するべきことは「これは『あなた』がしたことなのだ」ということだけです。
{あなたが認識するべきことは「神から目を背けた神の子の『あなた』がこのような世界を想像しているのだ」ということだけです。}
一旦あなたがこのシンプルな事実を受け入れたなら、そしてあなた自身がそれら(あなたが作っていた幻想)に与えていた力を取り戻したなら、「あなた」はそれら(あなたの幻想)から解放されるのです。

一つ確実なことがあります。 それは幻覚は特定の目的の為に起こされていたという事です。 目的を遂げようとすることが止められたなら幻覚は消えるのです。
だからあなたが自分に向かってするべき質問は「あなたはこれらの幻想を求めていますか?」では決してなく、「あなたは『これらの幻想が仕えている目的』を求めていますか?」なのです。
{あなたの体の目に見えている}この世界は(お互いに異なり、異なる価値を持った)多くの目的を持っているように見えます。
しかし(異なって見える)それらの目的は全て同じなのです。
ここでも難易度の違いは存在しておらず、価値の上下関係(ヒエラルキー)が成立しているように見えるだけなのです。
本当に可能な目的は二つだけなのです。
一つは罪{神からの分離}で、もう一つは神聖{統合}です。
それ以外の(その中間の)選択は何も無く、(罪と神聖の)どちらを選んだかによってあなたが見るものが決まるのです。
何故なら、あなたが見ているものは「あなたがどのようにして自分のゴールを達成しようと選択したか(表現しているもの)」に過ぎないのだから。

幻覚は「狂気のゴールを達成しようとすること」に仕えているのです。
これらの幻覚は、(内側から投射されている)外側の世界が罪に調整され罪のリアリティを目撃/証言しているように見えることを達成する方法なのです。
しかしこのような幻覚が起こっている最中でも「{わたし達/あなた達の}外には何も存在していない。全てはわたし達の中にある。」が真実であり続けているのです。
しかし無(何もないところ)に対して、全ての投射が行なわれています。
投射が無(なんでもないもの、何もない状態)に対して、その全ての意味を与えているのです。
{エゴが無に対して投射を行なっており、エゴが意図した意味をそこに与えているのです。 }

意味を持ってないもの{意味が与えられていないもの}は知覚出来ません。
そして意味は常に自分の内側を見て、そこに自分自身を見つけます。
そしてそこから外側を見るのです。
そしてあなたが外の世界に与えた意味が、このようにして「自身の中にあなたが見た光景」を反射/反映しているのです。
でもあなたが殆ど{自分の中には}何も見ずにそれ(外の世界)を裁いたなら(判断したなら)、その方が(エゴにとっては)都合が良いのです。

聖霊はヴィジョンという方法を使ってあなたの悪夢をハッピー・ドリームに変換するのです。
(その中であなたの想像上の罪の怖ろしい結果の全てが表されている)「あなたの滑稽な幻覚」は聖霊によって「安心な光景」で置き換えられるのです。
これらの優しい光景と音はハッピーに見つめられ、喜びをもって聞かれるのです。
聖霊は「エゴの目的があなたの怯えた意識に与えている酷い光景や叫びの音」をこれらの(ハッピーな)光景や音で代用する(取り替える)のです。
(聖霊のヴィジョンがもたらす)これらの光景や音は、あなたを罪から一歩退かせ、「あなたが怖れているものはリアリティではないこと」をあなたに思い出させ、「あなたが犯したエラーは修正可能であること」を思い出させるのです。

「怖ろしく見えること」をあなたが見つめて、それが愛らしさと平和の光景に変化しているのを見たなら、あなたが死と暴力の光景を見てそれが(生命に満ちた清水が流れ、決して無駄にされない小川が踊っている)広い空の静かな庭園の光景に変化して行くのを見たなら、ヴィジョンのギフトを受け取るようあなたを説得する必要などあるでしょうか?

そしてヴィジョンが見えたなら、その後に来るべきものを拒否出来る人が居るでしょうか?
これに関して一瞬だけでも考えてみなさい。
神がその子供に与えた神聖をあなたは見ることが出来るのです。
そしてあなたが見るべきものがこれ以外にあると考える必要は全く無いのです。

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