Apr 5, 2013

Ch26-08

Review of Principles   原則の復習

  

これは奇跡のコースです。

だからこのコースの目的が達成される為には「癒やしの法則」が理解される必要があるのです。

私達が話して来た原則を振り返って、「癒しが起こる為に必要なこと全て」を要約する形でまとめ直してみましょう。

何故なら、それが一旦可能に成ったなら、それは起こるに違いないのだから。

 

全ての病は分離から来ています。

分離が否定された時、病は去るのです。

何故なら「病を持って来ていたアイディア」が癒やされた瞬間に病は消えるのだから。

「病と罪」は「理性(reason)の光りから遠ざけ保持出来るよう意識から隠されている関係」の中で「原因と結果」として見られているのです。

 

 

 

罪悪は懲罰を求め、その要求は叶えられるのです。

真理の中ではなく、罪の上に作られている影と幻想の世界の中で{罪悪から来る懲罰の要求は確約されているのです}。

神の子は自分が見たいと思っているものを知覚するのです。 何故なら、知覚とは「願いが満たされていること」なのだから。

知覚は不変の叡智に置き換わるよう作られているので、知覚は変化するのですが、真理は変りません。

真理を知覚することは出来ず、真理は知られるだけなのです。

「知覚されているもの」は様々な形を取っているのですが、それら全ては意味を持っていないのです。

真理の下に持ってこられたなら、その無意味さは{知覚されているもの自体は意味を持っていないこと}はとても明白なのです。

「真理から離されている知覚」は意味を持っているように見えており、リアルであるように見えているのです。

知覚の法は真理の「反対」で、叡智にとって真であることは「叡智から離れている全てのもの」にとっては真ではないのです。

しかし神は病の世界に対して「答え」を与えており、神の答えはあらゆる形の病に当て嵌まるのです。

 

 

神の答えは永遠なのですが、それ(答え)が必要とされている時間の中で働くのです。

しかしそれ(神の答え)は神のもので、時の法則はその働きには影響を与えません。

それはこの世界の中に在るのですが、この世界の一部ではないのです。

何故なら、それ(神の答え)はリアルで、「全てのリアリティが在るに違いない場所」に住んでいるのだから。

アイディアはその源から離れておらず、アイディアの効果/結果がアイディアの源から離れているように見えているだけなのです。

『「外側」に投射されており、マインドの外にあるように見えているもの』は、全く外側にはなく、源のもとを離れておらず、内側の効果/結果でしかないのです。

神の答えは「罪に対する信念がある場所」に在るのです。何故なら、そこ(罪に対する信念が存在している場所)でのみ罪の効果/結果が完全に解除され、原因が{本当は}存在していないことが証明されるのだから。

 

 

知覚の法則は逆転する必要があるのです。何故なら、知覚の法則は真理の法則の逆なのだから。

真理の法則は永遠に真理で、それを逆転することは出来ないのですが、しかしそれ(真理の法則)をアベコベ(逆)に見ることは出来るのです。

逆転の幻想が起こっている所でこれ(幻想)が修正されなくてはならないのです。

「一つの幻想が他の幻想よりも真理に対して従順ではないこと」など不可能なのです。

しかしある種の幻想に対してより大きな価値が与えられることは可能で、

すると「癒やしとヘルプが得られるようにその幻想を真理の下に捧げること」が躊躇されてしまうのです。

しかし、どの幻想の中にも真理は全く無いのです。

ある種の幻想はより真であるように見えるのですが、これは全く無意味なのです。

幻想のヒエラルキー(上下構造)に示すことが出来るのは、リアリティではなく、「好み(嗜好)」なのです。

 

 

「好み(嗜好)」が真理に対してどのような関係を持っているのでしょうか?{好みは真理とは無関係なのです。}

幻想は幻想でしかなく間違っているのです。

あなたの好み(嗜好)が幻想にリアリティを与えることは出来ません。

それらの幻想はどのような意味でも何一つとして真実ではなく、「それら全ての幻想に対して神が与えた答え」に対して同じだけ容易に譲るに違いないのです。

神の意志は一つなのです。

「神の意志に逆らっているように見えている全ての願い」は真理の中に全く基盤を持っていない(全く真実ではない)のです。

罪はエラーではありません、何故なら{もしも罪というものが実在したなら}それは修正を超えて不可能に成っているのだから。

しかし「それ(罪)がリアルであるという信念」がある種のエラーを癒やしの希望から永遠に遠ざけられているように見せており、それ(エラー)を地獄への永遠の基盤に見せているのです。

もしこれが本当なら、天国が「(天国自身と同じだけリアルな)天国の反対物」によって逆らわれていることになるのです。

その場合、神の意志が二つに切り裂かれており、(神の忍耐が切れて世界を分離させ、神自身に対して攻撃を仕掛けるまで)全創造は二つの対立する力の法則に従うことになります。 

このようにして彼(神)が狂気に陥っており、「罪が彼のリアリティを彼から奪い去っており、彼の愛が復讐の足元に打ち捨てられている」と主張されるのです。

 

このように狂気な絵に対しては狂気の防御が期待されているのですが、しかし「この絵が真実であること」は確立不可能なのです。

「意味が成り立っていない所」には意味を与えるものは何も無いのです。

そして真理は「それを真理にする為の防御」は必要としていません。

幻想は証人を持っておらず、幻想は効果/結果も持っていないのです。

それら(幻想)を見ている者達は騙されているだけなのです。

 

赦しだけがここでの役割なので、『「(罪が統治していると考えられている)この世界」が神の子の全側面に対して否定した喜び』を{赦しが}持って来るのです。

もしかしたらあなたは「死を終らせることに関して赦しが担っている役割」や「罪悪から立ち昇って来る全ての信念」を理解していないかもしれません。

 

罪とはあなたが兄弟とあなた自身の間に挿入した信念なのです。

それらの信念(概念)は、あなた達を時間と場所(位置)に限定し縛り付け、少しのスペースをあなたに与え、別の少しのスペースを兄弟に与えるのです。

この分離/分割はあなた達の知覚の中で「明確に切り離されている体達」としてシンボル化されているのです。

しかしこのシンボルは「切り離されていたい」というあなた達の願いを表しているに過ぎないのです。

 

赦しは「あなたと兄弟の間に立ちはだかっているもの」を取り除きます。

赦しとは、あなたが彼(兄弟)と(分かれていたいのではなく)繋がりたいと願うことなのです。

私達がこれを「願い」と呼んでいるのは、この時点では他の選択の可能性がまだ考えられており、選択の世界を完全に超えることがまだ起こっていないからです。

 

しかし{兄弟姉妹と一つに繋がりたいという}この願いは、天国の状態と合致しており、神の意志に逆らっていないのです。

これ(赦し)によって、「あなたにあなたの全遺産(父からあなたに与えられている全て)が与えられること」には成らないのですが、あなたが「(あなたが居る所である)天国」と「自分がどこに居り自分が誰かというあなたの認識」の間に挿入した障害が取り除かれることになるのです。

事実が変えられることはありません。しかし事実を否定し、事実が知られずにいることは可能です。でも事実が否定される前までは、事実が知られていたのです。

 

救済は『真理が真理であるようにという「小さな」願い』だけを求めているのです。

救済は『「そこに存在していないもの」を見越す(見過ごす)「少し」の意欲』だけを求めているのです。

「(死と荒涼が統治しているように見えている)この世界」よりも天国を好む「少し」の吐息{が求められているのです}。

 

喜びに溢れた答えの中であなたの中から創造が立ち上がり、あなたが見ている世界を(本当にパーフェクトで充実している)天国で「置き換える」のです。

赦しとは、真理が真理であることを{許可する}意欲でしかないのです。

『「(それ自身の中に全てを内包している)合一(Unity/創造の全てが一つである状態)」から離れていて癒されず壊れたままで居られるもの』など在り得るでしょうか?

罪は実存していません。

「自分の願いと神の意志が一つである」と神の子が認識した「瞬間」に全ての奇跡が可能なのです。

 

神の意志とは何でしょうか?

「神の子が全てを持っていること」が神の意志です。

そして神が「神の子を全てとして創造した時」に、神はこれ(神の子が全てを持っていること)を確約したのです。

「あなたが持っているもの」が「あなたであるもの」であった場合、何かが失われることは不可能です。

{「あなたが持っているもの」が「あなた自身」であった場合、何かがあなたから失われることは在り得ません。}

この奇跡によって、創造が「あなた達」の働きに成り、あなた達が創造を神とシェア(共有)しているのです。

これ(神の意志)は神から「離れて」理解されることはなく、だからこの世界の中ではこれ(神の意志)には意味が無いのです。

ここ(この世界)の中で神の子は多く求め過ぎているのではなく、少ししか求めていないのです{十分求めていないのです}。

 

彼(神の子)は、自分だけの卑小な宝を見つける為に「全てと共にある自分自身のアイデンティティ(自己認識)」を犠牲にしようとしているのです。

しかし「孤立感/喪失感/孤独を感じないでこれをすること」は彼(神の子)には出来ないのです。

「彼(神の子)が見つけようとした宝」はこれ(分離/独立したアイデンティティ)だったのです。

そして彼はこれを怖れることしか出来無いのです。

 

怖れは宝でしょうか?

不確実なもの(不確実性)があなたの欲しているものでしょうか?

これは「あなたの意思」と「リアルなあなた」に対する誤解ではないでしょうか?

「何がエラーなのか」考慮してみましょう。エラーを守ろうとするのではなく、エラーが修正出来るように。

罪とは『「信念が発生しているマインド」の外に攻撃を投射することが出来る』という信念なのです。

ここに「アイディアがその源から離れてリアルに有意義に成れるという」硬い確信が在るのです。

このエラー(この間違った認識)から「罪と犠牲の世界」が立ち昇って来ているのです。

この世界は、攻撃を大切に保ちながら「あなたの無垢/無罪」を証明しようとする試みなのです。

「理由は理解出来ないけれども、あなたがまだ罪悪感を感じている」ということに、この世界の失敗が表されているのです。

効果/結果がその源から切り離されているのです。{結果がその原因から分離しているように見えているのです。}

それら(結果)にはあなたのコントロールが届いておらず、それら(結果)を止めることも出来ないように見えているのです。

 

「分離されているもの達」は決して繋ぎ合わせることが出来ません。

原因と結果は一つで、分離してはいないのです

神は「常に真実で在り続けて来たことをあなたが学ぶこと」を意図しているのです。

彼(神)が自身の一部としてあなたを創造しており、アイディアがその源を離れることは無いので、これ(神が自分の一部としてあなたを創造していること)が今でも真理であるに違いないのです。

創造の法則とはこのようなもので、「マインドが考えた(認知した)それぞれのアイディア」が{マインドの}その豊かさに付け加えられ、決して差し引かれることはないのです。

このことに関しては「何となく(怠惰に)願われたこと」も「真剣に願われたこと」も等しく真なのです。 何故なら、マインドは自ら欺かれることを願う事が出来るのですが、「マインドをそれ(マインドそのもの)以外のものにすること」は不可能なのだから。

「アイディア群がその源を離れることが出来る」と信じることは、幻想を真実にしようとして呼び込み失敗することなのです。

何故なら、「神の子を欺こうとすること」は決して成功しないのだから。

 

原因と結果が(別々に保たれるのではなく)一つにされた時に奇跡が可能なのです。

原因を癒やさずにいて結果を癒やそうとしても、ただ結果が他の形に変化するだけなのです。 そのようなことは解放ではありません。

 

神の子は『「完全な救済と罪悪からの解放」には満たないもの』では決して満足出来ません。

そうでなければ彼(神の子)は自分で何らかの犠牲を行なおうとしてしまい、それによって「全てはどのような損失によっても限定されておらず、全てが彼のものであること」を否定してしまいます。

 

少しの犠牲でも「犠牲のアイディア全体」と同じ効果を持っているのです。

どのような形でも損失が可能であるならば、その場合神の子は不完全にされており正気ではないのです。

その場合、彼(神の子)は自分の意志を認識しておらず、自分を知っていないのです。

その場合、彼は彼の父と彼自身を拒否しており、憎しみの中で彼等(父と自分)を自分の敵にしているのです。

幻想達は「幻想が作られている目的」に従おうとするのです。

幻想達の目的故に、彼等は幻想が持っているように見えているどのような意味でも引き出すのです。

しかし(例え幻想がどのような形を取っていたとしても)神は全ての幻想達に対して『奇跡を正当化する「もう一つ」の目的』を与えたのです。

 

全ての奇跡の中に全ての癒やしが在るのです。何故なら、神は全てに対して一つの答えを与えたのだから。

そして「彼(神)にとって一つで在るもの」は同じであるに違いないのです。

『「同じであるもの」が異なっている』とあなたが信じているなら、あなたはあなた自身を騙しているだけなのです。

「神がひとつと呼んだもの」は永遠にひとつで、決して分離しないのです。

神の王国はひとつに統合されており。そのように創造されており、だからそのように{ひとつで}在り続けるのです。

奇跡は「あなたの古代の名前{あなた本来の性質}」を呼び出し、あなたはそれ(あなたの古代の名前)を認識するのです。何故なら、あなたの記憶の中に真実が在るのだから。

そしてこの名前に対してあなたの兄弟が「彼自身とあなたの解放」を呼び出すのです。

天国は神の子に向かって輝いています。

彼(神の子)を否定することを止めたなら「あなた達」が解放されるのです。

 

神の子が死ぬことを選択しなくなるまで、神の子はそれぞれの瞬間に生まれ変わり続けるのです。

痛めようと願う度に、彼は(父が彼の為に意図していることを選択するのではなく)死を選択しているのです。

しかし(彼が生きることが父の意志なので)全ての瞬間が彼に生命を捧げているのです。

磔刑の中に贖い(救済)が置かれているのです。 何故なら、痛みや苦しみが無い所には癒やしも必要無いのだから。

赦しはあらゆる形の攻撃に対する答えなのです。

だから攻撃から効果(結果)が取り除かれており、憎しみに対して「愛の名前」が答えられているのです。

神の子を磔刑と地獄と死から救う為に、これ(愛の名前)が与えられている「あなた」に対して永遠の栄光が与えられているのです。

何故なら(父がそのように意図したので)あなた達は神の子を救う力を持っているのだから。

そしてあなた達の手の中に全ての救済が置かれており、それ(救済)はひとつのものとして捧げられると同時に受け取られるのです。

 

『「神があなたに与えた力」を神があなたに使わせようとしたように使うこと』はナチュラル(自然)なのです。

神があなたを創造した通りに在ることは傲岸ではありません。

「神の子の全ての間違いに答える為に神が与えたもの」を使って神の子を自由にすることは傲岸ではありません。

「神が与えた力を手放して、神の意志の代わりに卑小で無意味な願いを選択すること」が傲岸なのです。

あなたへの神のギフトは無限なのです。

神のギフトに答えられない状況は存在しておらず、その栄光の光りの中で解決されない問題も無いのです。

「神があなたを居させようとしている平和」の中に留まりなさい。

『その中で「あなた達」の願いが満たされる平和』を兄弟が見つける方法に成りなさい。

罪と死の世界に対して祝福をもたらすことの中で一緒に成りましょう。

何故なら、「私達一人一人を救えるもの」は私達全員を救うことが出来るのだから。

神の子達の間に違いは無いのです。

 

特別性が否定しようとしている合一(Unity)が{特別性をまだ信じている}彼等全員を救うのです。

何故なら、一つであるものが特別性を持つことは出来ないのだから。

そして{神の子である}彼等一人一人に対して全てが所属しているのです。

兄弟と「兄弟自身のもの」の間に願いは存在していません。

一人から奪うことは、彼等全員を貧しくすることなのです。

しかし{兄弟姉妹の}一人を祝福することは、彼等全員をひとつのものとして祝福することなのです。

 

あなたの古代の名前は全ての人達のものなのです。と同時に、彼等の古代の名前はあなたのものなのです。

「あなたの兄弟の名前」を呼んだなら、神が答えます。 何故なら、{兄弟の古代の名前を呼んだ}あなたは神を呼んでいるのだから。

「神に呼び掛けている全員」に対して神が既に答えているのに、神が答えないことなど在り得るでしょうか?

 

奇跡はどのような変化を起こすことも出来ません。

しかし奇跡は、「真実を知っていない者」が「常に真実で在り続けて来たこと」を認識出来るようにするのです。

(それ自身に成ることを許可するという)この小さな真理のギフトによって、神の子が彼自身に成ることが許可され、全創造がひとつに成って神の子に向かって呼び掛ける自由が与えられるのです。

 

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