奇跡は何もしません。
奇跡が行なうのは解除だけです。
そして奇跡は「{神によって}行なわれていることに対する干渉」をキャンセル(相殺)するのです。
奇跡は{神によって行なわれていることには}何も付け加えず、ただ{干渉を}取り除くのです。
そして奇跡が取り除くことは、遥か昔にもう既に終っていることなのですが、それは記憶の中に保たれており、現在に効果/影響を与えているように見えているだけなのです。
{記憶の中に保たれており、現在に影響を与えているように見えている}この世界はとうの昔に終っているのです。
この世界を作った思考は「(それらの思考を考え、暫くの間それらの思考を愛していた)マインド」の中にはもう存在していないのです。
奇跡は「過去が過ぎ去っており、本当に過ぎ去ったものはもうどんな効果/影響も持っていないこと」を示すのです。
{幻想の}原因を思い出すことで、原因の出現の幻想を作り出すことは出来ますが、{思い出されている原因からもたらされるであろう}効果/結果を作り出すことは出来ないのです。
罪悪の全結果はもうここにはないのです。何故なら、罪悪は終っているのだから。
罪悪が消え去った時に、その結果も消え去り、原因無くして置き去られたのです。
罪悪の効果/結果を望んでいないなら、何故あなた達は、記憶の中で罪悪にしがみ付こうとするのでしょうか?
「思い出すこと」は知覚の過去形で、知覚と同様に選択的なのです。
{あなたは「思い出したいこと」しか思い出さないのです。}
「思い出すこと」は過去に関する知覚で、あたかもそれ(記憶)が「今」起こっており、そこに存在しているかのようにそれを見ることなのです。
知覚と同様に、記憶はあなた達が(「あなた達を創造した時に神が与えたもの」に取って代わるように)作り上げた技能なのです。
そして「あなた達が作り上げた全てのもの」と同様に、記憶は他の目的(分離以外の目的)で使うことも出来るのです。
もしあなたがそう願うなら、記憶を(痛める為ではなく)癒やす為に使うことが出来るのです。
癒やしの為に必要なことは、何かをしようとする努力ではないのです。
それは「あなたは必要を持っておらず、従って何もする必要はない」という認識なのです。
それは無選択な記憶で、それが真理に干渉する為に使われることは無いのです。
「聖霊が癒やしの為に使うことの出来る全てのもの」は「内容やそれらが作られた目的無くして」聖霊に与えられているのです。
それらは適用が特定されていない技能で、使われることを待っているのです。
{それらは適用方法があらかじめ決められてはいない技能で、使われる時にその適用方法が決まるのです。}
それらには献身(特定の専門)も目標も無いのです。
聖霊は確かに記憶を使うことが出来るのです。何故なら、神自身がそこに居るのだから。
しかしこれは{聖霊が使う記憶は}、過去の出来事に関する記憶ではなく、現在の状態でしかないのです。
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