「あなた自身の為にアトーンメント(贖罪/和解)を受け入れるということ」は「誰か他の人の病と死の夢にサポートを与え続けないこと」を意味しているのです。
それは「分離して彼の幻想を彼自身に向けようとする彼の願い」をあなたが共有しなくなることなのです。
そして「それら(彼の幻想)があなたに向けられること」をあなたが望むことも止めるのです。
するとそれら(彼の幻想)は効果を持たなくなるのです。
そしてあなた達は痛みの夢から解放されるのです。 何故なら、あなたは彼{あなたの兄弟}を自由にしたのだから。
あなたが彼を助けなかったなら、あなたは彼と共に痛みを被るのです。
何故なら、それがあなたの望みなのだから。{あなたが彼を助けなかったなら、その場合「あなたが彼と共に痛みを被ること」があなたの望みなので、あなたは彼と共に痛みを被るのです。}
こうしてあなたは「彼の痛みの夢の登場人物」に成り、彼が「あなたの痛みの夢の登場人物」に成るのです。この場合あなた達両者はアイデンティティを持っていない幻想に成るのです。
誰の邪悪な夢をあなたが共有するかによって、あなたは誰にでも何にでも成り得るのです。
あなたに確実に解ることは次の一つのことだけなのです。
「あなた達は怖れの夢を共有しているので、だからあなたは{その夢の中で}邪悪なのです。」
しかし、確実なものを今ここに見つける方法があるのです。
「(それがどのようなものであっても)怖れの一部に成ること」を拒否しなさい。
何故なら、{怖れの夢の一部に成ることを拒否しなければ}あなたは夢の中で{神の子としての}アイデンティティを失ってしまうから。
「それら(怖れの夢)があなたを発生させており、あなたに影響を与えている」と受け入れなくなることにより、あなたはあなた自身を見つけるのです。
あなたはそれら(怖れの夢)から離れて立っているのですが、あなたは「それらの夢を夢見ている彼」から離れて立ってはいないのです。
こうしてあなたは「夢見ている人」を夢から取り外し、「ひとつ」と繋がり、「他のもの」を手放すのです。
夢はマインド内の幻想に過ぎません。
そしてあなたは「マインド」と合一し繋がるのですが、全く夢とは繋がらないのです。
あなたが怖れているのは夢であって、マインドではないのです。
あなたは「あなた」が夢にしか過ぎないと考えているので、だからあなたは夢とマインドを「同じもの」と見ているのです。
そして何がリアルで、何があなた自身の中の幻想に過ぎないか、あなたは知っておらず、それらを見分けることも出来ないのです。
そしてあなたと同様に、あなたの兄弟も自身が夢であると考えています。
そしてあなたと同様に、あなたの兄弟も自身が夢であると考えています。
「彼自身に対する彼の幻想」を彼と共有するのは止めなさい。
何故なら、「あなた」のアイデンティティは彼のリアリティにかかっている(依存している)のだから。
そうではなく{彼の幻想の中で彼の幻想を共有するのではなく}、「幻想がまだ居残っているマインド」として彼のことを理解しなさい。
マインドとして彼はあなたの兄弟なのです。
彼は『「彼が夢見ていること」により作られている兄弟』ではなく、『「夢の主人公(ヒーロー)」である彼の体』はあなたの兄弟ではないのです。
彼のリアリティがあなたの兄弟で、あなたのリアリティが彼の兄弟なのです。
あなたのマインドと彼のマインドは「兄弟の共同体(brotherhood)」の中で繋がっているのです。
彼の体と彼の夢が少しのギャップを作っているように見えているだけで、「あなたの体と夢が作っているギャップ」が「彼のギャップ」と繋がっているのです。
しかしあなた達のマインドの間にはギャップなど存在していません。
だから「彼の夢と繋がること」は「彼と出会うこと」ではないのです。
何故なら、彼の夢はあなたから{彼自身を}「分離」しようとしてしまうから。
だから彼を解放しなさい、怖れの夢の中ではなく(怖れの夢の主張に従ってではなく)、
兄弟共同体(兄弟の一体性)に対するあなたの主張(主権)によって。
{「彼と自分が兄弟として同じ権利を有しており、自分と彼は等しく父の子であり、自分達は父から継承しているものに相応しいと」主張することにより彼を解放しなさい。}
彼の幻想をあなたの信心でサポートすることを止めることにより、「彼が誰であるか」彼に認識出来るようにしなさい。
あなたの信心で彼の幻想をサポートしてしまっている時、あなたはあなたの幻想に対して信心を与えているのです。
あなたが「あなた自身の幻想」に対して信心を与え続けている限り、彼は解放されません。
そして「あなた(達)」は彼の夢の鎖に繋がれ続けてしまうのです。
そして怖れの夢が『(あなた達がお互いのマインド内でサポートしている幻想が住んでいる)小さなギャップ』を脅かすのです。
もしあなたがあなたの役割を担ったなら、彼は彼の役割を担うのです。
何故なら、「あなた」が立っている場所で彼はあなたと繋がるのだから。
『「あなた達の間にあるギャップ」の中であなたと出会うこと』を彼に呼び掛けるのは止めなさい。
そのようにあなたが彼に呼び掛けていた場合、「それ(あなた達の間にあるギャップにあなた達が存在していること)があなたのリアリティであり、と同時にそれが彼のリアリティであること」をあなたは信じているに違いないのです。
「自身の夢を夢見ている人」にあなたが成っているのではなく、あなたが彼の夢の中の受動的な人物に成っている時、あなたが彼の役割(代役)を担うことは不可能ですが、しかしその時あなたは「これをしている(あなたはギャップの中で彼と繋がって彼の夢をサポートしている)」のです。
夢見ている人と夢は一つなので、夢の中のアイデンティティ(自己認識)は無意味なのです。
「夢を分け与えている者」は「彼(夢を分け与えている者)が分け与えている夢」であるに違いないのです。{ということになってしまうのです。}
何故なら、分け与えることによって原因が作られているのだから。
あなたが混乱を分け与えたなら、あなたは混乱させられるのです。
何故なら、ギャップの中に「安定した自己」は存在していないのだから。
{小さなギャップの中では}「同じもの」が違うように見える(表れる)ので、だから「同じもの」が「異なるもの」と見られてしまうのです。
彼の夢はあなたの夢でもあるのです。何故なら、それら(彼の夢)が存在することをあなたが許可しているのだから。
しかし、もしあなたがあなた自身の夢を取り外したなら、彼はそれら(あなたの夢)から自由に成り、彼自身の夢からも彼が解放されるのです。
あなたの夢は彼の夢に対する証言であって、{と同時に}彼の夢があなたの夢の真実を証言しようとしているのです。
しかし「あなたの夢の中に真理がないこと」をあなたが見たなら、彼の夢が彼の目の前で消えて行くのです。そして「何が夢を作っていたのか」彼が理解します。
聖霊はあなた達両者のマインド内に居るのです。
何故なら、「彼のワンネス(神の子の一体性)をそれ自身から分離しているギャップ」は存在していないのだから。{だから}あなた達の体の間のギャップは問題ではありません。 何故なら、「彼(神の子)の中で繋がっているもの」は常に一つなのだから。
もし誰か他者が「(分離したマインドを持ち、病気に成っているつもりでいる)その人」との合一(union)を受け入れたなら、病気であり続ける人は何処にも居ないのです。
「病んで分離しているマインドに成ろうとする彼の希望」は、「そのこと(彼のマインドが分離して病んでいること)に対する証人や原因」が無かったなら、保持することが出来ないのです。
「彼と一緒に成る意志(彼と合一する意図)」を誰かが持ったなら、(病の証人と原因の)両方が消えるのです。
彼は「自分は自分の兄弟から分離している」と夢見ており、彼の夢を共有しないことにより彼の兄弟は自分達(彼と彼の兄弟)の間のスペースを空にしたのです。
すると父が来て「聖霊と繋がっている神の子」と繋がるのです。
聖霊の役割は「神の子の壊れた絵」を受け取って「壊れてバラバラになった各部分」を元の場所に戻すことなのです。
「完全に癒やされているこの聖なる絵」を聖霊が「(それ自身が一つの完成した絵であると考えている)分離した各部分」に対して差し出すのです。
彼(あなた達)は「壊れた絵の一部が自分だ」と主張しているのですが、このそれぞれの部分に対して聖霊は「(壊れた小さな一部ではなく、絵全体を象徴している)聖霊のアイデンティティ」を捧げる(示す)のです。
そして彼がこの絵を見た時、彼は彼自身を認識するのです。
もしあなたが兄弟の邪悪な夢を共有しなかったなら、聖霊が「(全ての病と罪の種が拭い去られている)小さなギャップ」の中にこの絵(完全に癒やされている神聖なる絵)を据えるのです。
そして父がここで父の子を受け取るのです。何故なら、父の子が彼自身{神の子自身}に対して感謝しているのだから。
父よ感謝します。「聖なるあなたの子の分離した部分」の間にある「それぞれの小さなギャップ(亀裂)」をあなたが閉じることを私は知っているから。{と神の子が神に感謝を捧げるのです}
あなたの神聖は完璧でパーフェクトで、それは彼等人一人の中に存在しているのです。
「一人(ひとつ)の中に在るもの」は彼等全員の中に在るので、彼等は繋がっているのです。
一番小さな砂粒さえも、それが神の子の完全な絵の一部であることが認識された時、それは何と神聖なのでしょう!
「壊れた部分(分離した各部分)がかたどっているように見える形」は無意味なのです。
何故なら、全体がそれぞれ各部分の中に在るのだから。
そして神の子の各側面は、その他の各側面と同じなのです。
兄弟の夢と繋がることは止めなさい。
そうではなく「彼(聖霊)」と繋がりなさい。
そして神の子とあなたが繋がっている所に父が居るのです。
自分が何も失っていないことを知覚/認識した時、誰が代用品を求めるというのでしょうか?
健康というシンプルな幸福を受け取った時、誰が病の「利益」を求めるというのでしょう?
「神が与えたもの」は損失では在り得ず、「神から来ていないもの」には影響力が無いのです。
であれば、あなたはギャップの中に何を知覚しようとするのでしょうか?
『分離の中に喜びがあり、分離を手放すことは犠牲であるという信念』から病の種が来ているのです。
しかし「存在していないもの」をギャップの中で見ようとあなたが固執しなくなれば、その結果として奇跡が起こるのです。
「神の子を癒す者」が求めているのは「幻想を手放そうとするあなたの意欲」だけなのです。
彼(神の子を癒す者=聖霊)は「病の種が在った所」に「癒やしの奇跡」を置くのです。
そこには損失が無く、得ることだけが在るのです。
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