Apr 27, 2013

Ch29-01

The Closing Of The Gap

ギャップを閉じる



神が不在な時間も場所も状況も存在してはいないのです。

怖れる必要があるものは全く存在していないのです。

「神のものである全体」の中にギャップが生み出される(考え付かれる)訳が無いのです。

『「この取るに足らない小さなギャップ」が「神の永遠の愛」の中に示唆しようとしている妥協』は全く不可能なのです。

何故なら、それは{ギャップが存在するということは}「神の愛が少しの憎しみを含み得る、神の優しさが時には攻撃に変化し得る、神の永遠の包容力が時には切れてしまう」という意味になってしまうから。

 

あなた自身とあなたの兄弟の間にギャップを知覚している時、あなたはこれら全てを信じているのです。

であれば、どうして神を信頼することがあなたに出来るのでしょうか?

何故ならその場合、神は神の愛の中で欺瞞に満ちているに違いないのだから。

もしそうであるのなら気を付けなさい。彼があなたの近くに来ることは許さず、あなたと彼の愛の間にギャップを保ち、逃げる必要がある場合にはそこから(彼の近くから)脱出しなさい。{ということになる訳です。}


ここにおいて神への怖れが一番鮮明に見られているのです。

何故なら、怖れと憎しみは決して切り離せないので、だから「怖れている者達」にとって愛は不実で裏切りに満ちているのだから。

憎んでいる人で愛を怖れていない人は誰も居ないのです。従って{憎んでいる}彼は神を怖れずには居られないのです。

確実なのは「{神を怖れている}彼は愛が何を意味しているか知っていない」ということです。

だから彼は愛を怖れ、憎しむことを愛するのです。そして彼は「愛が怖ろしい(憎しみが愛だ)」と考えるのです。

「小さなギャップを大切にして、それが自分達に救済と希望をもたらすと考えている者達」に対して小さなギャップがもたらす結果がこれ(愛が怖ろしく見えること)なのです。

「(平和がその上を流れ渡るべき最大の障害である)神への怖れ」がまだ消え去っていないのです。

他の障害は消え去ったのですが、この障害はまだ残っていて、この障害があなたの行く先をブロックしており、光への道を暗く怖ろしく危険で絶望的に見せているのです。

 

「自分の兄弟は自分の敵である」とあなたは決めたのです。

もしかしたらあなた達は時には友達で、「あなた達の分離した興味」が少しの間友情を可能にしたかもしれません。

しかし「彼(兄弟)が敵に変わってしまった時の為にあなた達の間に在るギャップ」が無くなってはいないのです。

彼があなたの近くに来たなら、あなたは飛びすさり、あなたが彼にアプローチしたなら彼は瞬時に飛び退くのです。

限られた範囲の友情は、注意深く区切られた分量の友愛は、あなたが彼と共に作った裏切りに成るのです。

あなた達は「条件付きの条約」を分け合い共有しており、あなた達は「その条約内の分離の条項」を保つことに合意しているのです。

そして「この条項を破る事は許されざる条約違反である」と考えられているのです。

 

あなた達の間のギャップは「二つの分離した体の間のスペース」ではないのです。

これ(ギャップ)が「あなた達の分離したマインド」を切り離しているように見えているだけなのです。

これは(あなた達が好む時に出会う為の、そしてあなた達両者がもう一度出会うことを選択するまで別れている)約束のシンボルなのです。

すると{あなた達がお互いともう一度出会うことを選んだなら}あなた達の体は接触している(出会っている)ように見え、繋がる出会いの場所を示しているように見えるのです。

しかしあなた達が異なる道に分かれて進むことが常に可能なのです。

分離する権利の上に、あなた達は時々出会っており、(あなた達を愛の「犠牲」から守る)分離の期間を保っているのです。

体があなた達を救っているのです{そのように見えているのです}。 何故なら、体が「完全な犠牲」から抜け出ており、「あなた達の分離した自己」を作り直す時間をあなた達に与えているから。

『あなた達が出会う度に「あなた達の分離した自己」が減少している』とあなた達は信じているのです。


あなたが体を「分離の原因(そしてあなた達の間に見られている距離の原因)」にしたいと求めない限り、体があなた達のマインドを分離することは出来ません。

こうして{体を分離の原因にしたいと求めることにより}あなた達は「体自体の中には存在していない力」を体に「与えて」いるのです。

ここに「(あなた達を屈服させている)体の力」が在るのです。

何故なら{あなた達が体を分離の原因にしたいと求めて、そのような力を体に与えた}今あなた達は『自分達が何時出会うか体が決め、お互いのマインドとコミュニコン(霊的交歓)する「あなた」の能力を体が限定し閉じ込めている』と考えているから。

そして今「あなたが何処に行くべきか、どのように行くべきか、あなたに何が出来るか、そしてあなたに何が出来ないか」体が{相互合意されている体の概念が}あなたに告げるのです。

「体の健康が容認出来ることは何か」を体が決め、「何が体を疲れさせ病にするか」を体が{相互合意されている体の概念が}決めるのです。

そして体の内在的弱さが、『あなたがしようとすること』に対して限定/限界を課し、あなたの目的を限定し弱くするのです。

 

もしあなたがこれ{上記の状態}を求めるのなら、体はその通りに行うのです。

しかしそれは『「憎しみの期間」を{愛への耽溺の期間の}間に挟んで、限定的に「愛」への耽溺を許すこと』でしかないのです。

そしてそれ(体の概念)は「何時愛し、何時安心を求めて怖れの中に縮こまるか」決めるのです。

あなた達は「愛するということの意味」を知っていないので、それ(体)が病気に成るのです。

だからあなた達は、出会った全員と全状況を悪用(誤用)せざる得ず、「彼等自身(兄弟姉妹自身)のものではない目的」を彼等(兄弟姉妹)の中に見ざる得ないのです。

 

犠牲を求める愛は存在していません。

しかし恐れが愛の犠牲を要求するのです。何故なら、愛の出現の中に恐れが居残ることは不可能だから。

恐れが保たれる為には愛が恐れられる必要があり、だから{愛が}時に現れて、時に消え去るのです。

このようにして愛が裏切りに見えているのです。 何故なら、それは不確実に現れたり消えたりして、あなたに安定を与えないのだから。

 

「あなたの忠誠心がどれだけ弱く限定的か」あなたは見ていないのです。

そして『あなたがどれだけ頻繫に「愛が通り去りあなたを静かに一人”平和”にするように」要求しているか』あなたは見ていないのです。

 

「(どのようなゴールからも無垢である)体」が「あなたが持っている(そして体が保ことをあなたが強いている)変化し続けるゴール群」の言い訳なのです。

あなたはその{体の}弱さを恐れてはおらず、しかしその{あなたのゴールの}力不足を恐れているのです。

 

あなたは「あなた達の間には何も立っていないこと」を認識しようとは思いませんか?

「(あなたがその後ろに隠れられる)ギャップは存在していない」と知ろうとあなたは思いませんか?


「自分達の救い主」がもう「自分達の敵」ではないと学んだ時、人々はショッックを受けるのです。

体がリアルでは無いと学ばれた時、ある種の倦怠感が沸き起こるのです。

そして「神が愛であるというハッピーなメッセージ」の周りには「恐れのように見える響き」があるのです。

しかしギャップが消え去った時に起こるのは、永遠の平和だけなのです。

それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

神への恐れが無いのなら、何があなたに彼(神)を放棄させるというのでしょうか?

(神の愛から一瞬でもあなたを押し留める)どのような玩具やガラクタがギャップの中に在るというのでしょうか?

「神を発見する途中で自己を放棄すること」をあなたが天国の中で恐れていない時、あなたは「体が天国の呼び声に対してNoと言うこと」を許可しようとするでしょうか?

{あなたが}見つかることで、あなたの自己が失われること』などあり得るでしょうか?

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