29. Miracles are a way of EARNING release from fear.
29. 奇跡とは怖れからの開放を「得る」方法です。
これは私があなたに罪を償いなさいと言っているように聞えますが、そうではないのです。
奇跡そのものが、怖れからの開放なのです。
それは一瞬の内に起こることなのですが、これが「(分離への固執に由来する)暗い怖れから自由に成ること」をあなたに体験させるのです。
この怖れは余りにも強いので、それを隠すために、あなたは半意識的存在であることを余儀なくされているのです。
2006年6月22日
Revelation induces a state in which fear has ALREADY been abolished.
啓示は、怖れが既に解消されている状態をもたらします。
この文は、あなたが啓示を得る前に、何とかして怖れを手放さなければいけないと言っているのでしょうか?
いいえ、違います。
あなたは単に怖れが存在している領域から離れれば良いだけなのです。
怖れは分離状態の中にしか存在していません。
恐怖の絶望の窮地の中であなたが「自分には解らないもの」に手を延ばしたなら、その手が取られ、安心感があなたのマインドを満たすでしょう。
あなたは一人ではないのです。
「神」は存在しています。 その時「神」が自身をあなたに示したのです。
(あなたを苦しめていた)波は止まったかもしれません。
あるいは、そのまま高波のままかもしれません。
いずれにしろ、あなたは全てが安全で「何か新しいもの」がマインドの中に流れ込んで来ていることを知るのです。
すると世界はもう前とは違うのです。
必要とされていた神聖の側面があなたに自身を示したのです。
これが奇跡なのです。
時としてあなたに必要なのは、独立的/孤立的態度を放棄することだけなのです。
時としてあなたが奇跡なのです。
しかし時として奇跡が「外側に」現れていることもあるでしょう。
Miracles are thus a means, and revelation is an end. Miracles do not depend on revelation; they INDUCE it. Revelation is intensely personal, and cannot actually be translated into conscious content at all. That is why any attempt to describe it in words is usually incomprehensible.
だから奇跡が方法で、啓示が結果なのです。奇跡が啓示に依存しているのではなく、奇跡が啓示をもたらすのです。啓示は非常にパーソナルで、意識的内容(ストーリー)として翻訳することは本来不可能です。だから啓示体験を言葉で説明しようとしても、意味を成さないのです。
啓示を受けた後の世界は一変しており、それはより安全なより優しい場所になっています。
「愛」が送られ、「愛」が働き、あなたがリアルだと考えていた領域に対して「愛」が主権を施行したのです。
Revelation induces ONLY experience.
啓示は体験だけをもたらすのです。
啓示とは感じるものです。 ハートとマインドがタッチされ(揺さぶられ)変容が起こるのです。
Miracles, on the other hand, induce ACTION.
それに対して、奇跡は「行動」を引き起こします。
奇跡が起これば、高波が静まったり、何処からとも無く助けのヘリコプターが実際に現れたりするのです。
啓示とは『「神」が奇跡の「源」で、「神」は「良きもの」でしかない』という気付き/認識なのです。(脚注13 を再度見てください。)
Miracles are more useful now, because of their interpersonal nature.
奇跡は人と人の関係に働きかけるので、それは今こそ有効なのです。
あなたの「兄弟姉妹」が奇跡を見て、彼等の思考がオープンになります。
啓示を得たあなたは、それを他者に説明出来るかも知れません。
しかし、それが引き出す「フィーリング/ノーイング(英知)」はとてもパーソナルな、とても親密なものです。
2006年6月24日
In this phase of learning, working miracles is more important because freedom from fear cannot be thrust upon you.
学習のこの段階では、奇跡をもたらすことの方がより重要です。
何故なら、怖れからの解放をあなたに無理矢理押し付けることは出来ないからです。
怖れからの解放をあなたに押し付けることは誰にも出来ませんが、「自由」はあなた本来の「持って生まれた権利」なので、あなたは何時でも「自由」を選ぶことが出来るのです。
ジェットコースターは怖い乗り物ですが、人によってはそれを楽しい体験として選んでいます。
「永遠の生命」の「宇宙」の中で、(実存していない)「死」と戯れることは意地っ張りでおかしなことです。
このゲームに興じている人達は自由を望んでいません。
(わざとマインドを無意識にしたことから来る)無感覚の退屈さに刺激を与えるため、怖れというスパイスが使われているのです。
怖れから自由になることを自分に許可したあなたにとっては、これは「ジェットコースターに乗ることを拒否して地の上に留まる」ぐらい簡単なのです。
単にノー(否)と言えば十分です。 「いいえ、遠慮します。 私は他のことをしたいのですから。」
ここで言う「他のこと」とは、「命」と「自由」を選ぶことです。
「父の家」を選ぶこと、「天国」と言う名に値する「喜びと愛と平和の家」を選ぶことです。
30. Miracles praise God through men.
30. 奇跡は人を通して「神」を称えます。
奇跡は「神」を称えるものです。 (あなたが世界と呼んでいる)人間的体験の中でそれを見て体験することが出来るのです。
奇跡は「神である愛」が世界の中に常に存在し、それが常に与えられていることを示します。
奇跡は『「神」が遠い空の上に居て、人間的感情を持ち、特定の人だけを癒やそう/祝福しようとしている』と言う宗教的考えを否定します。
They praise God by honoring His Creations, affirming their perfection.
奇跡は、「神の創造」を尊重しその完璧性を認めることにより、「神」を称えます。
奇跡は、「神」が「創造の全て」に対して持っている、言葉には出来ない「愛」を示しています。 そして全ての人がそこに含まれて居ます。
どの宗教も「神の愛」に対する独占権は持っていません。
もっとも、彼/彼女/神に対してより愛に溢れた見方をする宗教はあるかもしれません。
罪人も無神論者も、全ての人が癒しに値します。
私たちは全員「神の現れ」そのものなので、全て同等に「愛」されているのです。
ローマの兵士達やユダも、私と同じように「神」から愛されていました。
私の同胞達も、私を嘲笑したユダヤ人も、私の後について来たユダヤ人も、全員等しく「神の現れ」であったのです。 そして「神の現れ」であり続けています。
そして「神によって愛されている」と私が言っている時、それは「神」と「私たち全員」の間に分離があると言っているのではありません。
しかし思考にとっては、『「神の現れ」そのものに「成っている」』という言い方よりは、「神によって愛されている」といった方が理解し易いかもしれません。
この「愛」は自己愛(Self-Love)なのです。
「神」が「彼自身/彼女自身」の現れを体験し、その現れの中で「神」そのものとして喜んで楽しんでいるのです。
「神」が「バラ」に「成って」おり、「神」があなたに「成って」いるのです。
そして「神」が「バラ」に「成って」おり、それをあなたとして見せているのです。
そして「神」があなたに「成って」おり、それを「バラ」として見せているのです。
(「神」がバラとして、あなたとして存在しているのです。
そして、神があなたとして現れており、バラを見せているのです。
そして、神がバラとして現れており、あなたを見せているのです。
そう、バラもあなたを見ています。)
あなたは、幸福がどのようなものか知っていると思っていますか?
この体験を一度でもして御覧なさい!
これは「バラ」だけでなく、「神」の全ての「アイディア」に当てはまります。
奇跡は、それを受け取っている者が「愛されている者」だということを示します。
そして正しい理解は「全てが愛されている」です。
They heal because they deny body-identification;
奇跡が癒すのは、それが身体との自己同一を否定しているからです。
奇跡は、身体との自己同一を否定しますが、個性を否定するものではありません。
身体との自己同一を否定することは、物質とその見せかけの法則を否定することです。
“Individuality”(個性, 人格, 個人性)の語頭の in は否定を意味しています。
だからこの言葉は、分離が起こっていないと言う意味です。イド(エゴや物質)が存在しておらず、二元性も起こっていないと言うことです。
この個性(individuality)という言葉は、あなたの「聖なる実体」、つまり「スピリット(霊)」のことなのです。
あなたの「個性」とその「無限の表現」は両方ともユニークで、
and affirm Soul-identification.
「自分が魂であること」(魂との自己同一)を認めているのです。
(以前にも言った通り)魂は単一のもので、それは「神」のもう一つの「名前」、つまり『「神」を示すもの』なのです。
だからあなたの「魂を示すもの」とは、「神」があなたに「成って」いること、「神」があなたを「現して」いることなのです。
あなたは「神のもの」であって、(本当は)複数の「魂達」に分かれているわけではありません。
「魂」つまり「神」とは、「ワンネス(一体性)」としてのあなたなのです。
魂とは、あなたのユニークな「神-個性」なのです。
(全てが分離しており「ワンネス」が危険な戯言だと主張して)自分の「神聖」をブロックしている時、あなたは人間のフリをしているのです。
分離と特別性に納得している意識にとって、ワンネスは扇動的で危険な考えに見えるのです。
エゴ的思考には、ワンネス(一体性)というアイディアはとても危険で恐ろしい考えに見えるのです。
エゴに認めることの出来る唯一の「神」は、遠い空の上に居てエゴ同然に変わりやすく自己中心的な架空のパーソナリティーを持っている存在(としてデザインされているもの)だけでした。
しかし実際には、私の話している「愛の神」しか実存していません。
2006年6月30日
By perceiving the Spirit, – by perceiving Spirit – they – miracles – adjust the levels – in other words, dissolve the error and bring at least a glimpse of Truth to Light – and see them in proper alignment.
スピリット(霊)を知覚することにより、それら(奇跡)はレベルを調整し(つまり間違いを消し、「真実」を光の下に晒し)、それら(スピリット)を適切な枠組みの中で見るのです。
「適切な枠組み」とは、実際に起きている唯一のこと、つまり「リアリティ」のことです。
This places the Spirit – Infinite Spirit, God – at the center, – as the Source – where Souls – All of Creation – can – and does – communicate directly.
これが「スピリット(霊)」(無限のスピリット/「神」)を真ん中に(「源」として)据え、そこで魂達が(「創造」の「全て」が)(「神」と)直接コミュニケートするのです。
これを理解しているので、私は常に「あなた達全員」のため「あなた達全員」の傍に居ることが出来るのです。
2006年7月1日
31. Miracles should inspire gratitude, not awe.
31. 奇跡は、畏怖ではなく、感謝をもたらすべきものです。
奇跡は「人間的状況以外の何かが起こっていること」に対して多大な感謝をもたらすのです。
奇跡とは、神聖なしかし全く自然なことであると理解することがとても重要なのです。
奇跡とは「リアリティ」に対して不意に気付くことです。
それは癒しとして、安心として、救出として、「愛」として(どのようであれ、その時に最適な形で)体験されます。
これは大概の場合、それを受け取っている者の意志に反して起こるのです。
何故奇跡は「畏怖」をもたらさないのでしょう。
それは「畏怖」(驚き/怖れ)が、「聖なるリアリティ」ではなく、「聖なる選択」を暗示しているからです。
「気まぐれな神様が誰にいつ恩寵を与えるか決め、それに選ばれた罪人が畏怖の声を上げる。」
私が二千年前ペトロに教えたように『「神」は人々を敬うもの(人々の自己認識を認めるもの)ではありません』。
選り好みをするのはエゴのマインドだけです。
「神が愛である」という言葉は、全ての人に対して当てはまるのです。
このことは幾ら強調しても足りません。
この「愛」の「豊潤さ」は、それが「宇宙全体」に広がることにより、全く薄められず、むしろより一層豊潤になるのです。
「全ての者が選ばれている、しかし聞く耳を持っていた者はわずかしか居なかった。」という訳です。
「癒しや救助が必要とされている」ということにこそ驚くべきなのです。
「神の子」(つまりあなた)が、「リアリティ」に対するこのように奇妙な視点を選んだ(つまりそのような選択をする必要があると考えた)ということこそ驚くべきことなのです。 私の言いたいことが解りますか?
「リアリティ」としては「良きこと」しか実存していません。
「全体/健全」しか存在していないので、癒しは本来は不必要なのです。「全ては良い」ので、本来救出は不必要なのです。
「創造」に対する「神の視点」は「とても良い」11 (創世記 1:31.)でした。
「良きこと」があなたの「リアリティ」であり、そして「全て」の「リアリティ」なのです。
あなたは、このことを知人の「C」に対してどう応用出来るのか思い巡らせています。
今ここで、
Man should thank God for what he really is
人は自身の真実(リアリティ)に関して、「神」に感謝するべきなのです。
たった今ここであなたが『「C」の身体として見えているもの』に関して考えている時、あなたは(全ての人は)、彼の(「C」の)本当の姿に対して神に感謝すればよいのです。
The Children of God
「神の子供達」は...
(ここからはイエスではなく、「父/源」の声が話しています。)
あなた達は、「私の子供達」以上のものです。
「子供達」という言葉は、私から分離して離れている存在を暗示してしまいますが、それは違います。
あなた達は全員、私の実際の「現れ」です。
あなたは「私という愛の現れ」として、「私という愛」として、「私という生命」として、表現されています。
だから、
The Children of God are very holy, and the miracle honors their –Your – holiness. The Children of God are very holy, and the miracle honors their holiness.
「神の子供達」は(あなた達は全員)とても神聖です。 そして奇跡が、彼等の(あなた達の)神聖を称える(認める)のです。
『あなたが自分自身を神聖なものとして見ること』が一番大切なことなのです。 何故なら、冒涜的な人は、冒涜的な神を持ってしまうから。
(旧約だけでなく新約の)「聖書」の中の「神」があれほど気まぐれに見える理由がこれで解ったでしょう。
不安定なマインドは、不安定な神しか持てないのです。
「神の揺るぎ無い (善良さ/寛容/神々しさ)」がそれぞれの人に明白になるに従い、マインドの安定が確立されて行きます。
このマインドの安定が、奇跡と癒しから得られる最大の祝福なのです。 これ無しには、すぐにまた癒しを必要とする問題が表れてしまいます。
それ故に、ある種の人々は(痛みからエゴ思考を解放しようという彼等の強い願い故に)癒しを体験しても、それでも彼等の生活は変わらず、「神」に対する彼等のマインドの幼稚な誤解も変わらないのです。
彼等の「エゴ的な思慮の無さ」が、「故郷」への思いよりも強くなってしまっているのです。
それでも「神」は「愛」で、「リアリティ」が「リアル」なので、
God’s Creations never lose their holiness, although it can be hidden.
「神が創造したもの達」は決して彼等自身の神聖を失いません。 彼等の神聖は、ただ隠されているだけです。
彼等の神聖は、「神」や「目覚めている兄弟達」から隠されているのではありません。
彼等の神聖は、昏睡することを決意している睡眠者達から隠されているだけなのです。 自分達の夢に中毒してしまい、そこに浸り切っているあまり、「幸福」と「故郷」が敵に見えてしまっている者達から、彼等の神聖が隠されているだけなのです。
しかし、夢を形作っている思考がどれだけ頑迷であっても、その頑迷な者が「神の息子」であることに変わりはない、と思い出す必要があります。
そして、「神」と「創造」の全てから完全に愛されており抱擁されていることを思い出す必要があります。
あなたは「私たち」のハートに刻み込まれているのです。
The miracle uncovers it, your Holiness – by bringing an experience – a remembrance of your Safety and Perfection – and brings it – your Holiness – into the light where it belongs.
奇跡は(「安全」と「完璧性」の記憶/体験をあなたに与えることにより)それを(あなたの神聖を)あらわにし、それを(あなたの神聖が)所属する光の中に持って行きます。
Holiness can never be really hidden in darkness, but man can deceive himself about it.
神聖を闇の中に隠すことは本来不可能です。しかし、人はこれに関して自身を欺くことが出来ます。
あなたはあなた自身を欺くことが出来ます。
「あなた自身」に関する噓を生き続けることがどれだけ疲れるか解りますか?
あなた「自身」をあなた自身から秘密にしておくためには、どれだけの努力が必要になることか。
あなたの内なる「良きこと」を隠すために、どれだけあくせくしなければならないか。
なぜ眠る必要が在るように見えているか、これで解ったでしょう。
This illusion makes him – You – fearful, because he knows in his heart –You know in your heart – it IS an illusion, and he exerts – You exert – enormous efforts to establish its reality.
この幻想は彼を(あなたを)怖れさせてしまいます。
何故なら、彼も(あなたも)心の中ではこれが幻想であると知っており、だから非常な努力を行ってこの(幻想に対する)リアリティを確立しようとするのです。
しかし幻想をリアリティにすることは不可能です。
だから私はしつこく、この夢見ている「彼」こそ、あなたのことだと強調し続けているのです。
これは、自分が人間だという夢を見ており、自身の驚異的な「源」を忘れてしまい、「自身がどれだけ美しいものか」忘れてしまった、全ての人に当てはまります。
しかし「私たち」(父/母そして目覚めている存在)は、あなたのことを忘れてはいません。 そしてあなたが思い出すまで、あなたを癒す思いを優しく差し出し続けています。
そしてあなたが思い出したなら、「私たち」は「ワンネスの意識」を持って共にいることが出来るようになるのです
2006年7月2日
The miracle sets reality where it belongs.
奇跡はリアリティを、それが所属する場所に置きます。
(奇跡は、「リアリティに相応しい所」にリアリティを置きます)
リアリティに相応しい所とは、あなたがいる「ここ」であり「今」なのです。
2006年7月3日
Eternal reality belongs only to the Soul,
永遠のリアリティは「魂」(ソール)だけに所属しています。
そして「魂」とは、「神」以外のなんでありえるでしょうか?
この理解が、「生命」を(「生命」の完全な「表現」を)体ではなく、直接「神」と共に置いていることが理解出来ますか。
体も確かに「永遠のリアリティ」の一部なのです。 しかし、体は「永遠のリアリティ」を「与えたり」「保持したり」しているものではありません。
そして魂とは何でしょうか?
それは(全ての「アイデンティティ(主体性)」がそこから「永遠」に流れ出続けている)「輝ける源」なのです。
魂とは「もの/物体」ではなく、「神/マインド」の(それぞれに尊い)「アイディア」を与え続けるものであり、と同時に「神/マインド」の「アイディア」が立ち現れてくる所なのです。
(魂は「アイディア」がはじまる所なのではありません。 何故なら「リアリティ」には、はじまりが無く終わりも無いから。)
そして「私たち」も「永遠」に「立ち現れ」続けるのです。
「立ち現れる」とは、『たゆまぬ「永遠の命の真理」に対するあなたの体験』が現れ続けることを示しています。
and the miracle acknowledges only the truth.
そして奇跡は、真理だけを認めるのです。
だから、『真理が存在しており、(幻想状態にあるあなたでも)それを得ることが可能である』と自信を持って安心することが出来るのです。
そして、真理はいつでも得ることが可能なので、
It thus dispels man’s illusions about himself, and puts him in communion with himself AND God.
これが人の(自分自身に対する)幻想を解除し、「神」との、そして自分自身とのコミュニオン(霊的交歓)が出来るようにします。
奇跡によって、「あなた自身」に関するあなたの幻想が解除されるのです。
そしてあなたは自身の継続し続ける生命体験(それが聖なるコミュニオンです)を見つけるのです。
死者(と呼ばれているものを)蘇らせるのは、『あなたという永遠に続いて行く生命体験』に対するあなたの気付き(認識)なのです。
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