Mar 15, 2011

あなたは#24




前書き部


a. サミュエル・ロングフェロー(Samuel Longfellow)の聖歌

問題があるたび、必要があるたび、私は「あなた」に答えを求めました。
そして常に答えが与えられてきました。
私は「あなた」の手を感じ、「永遠の愛」を感じます。
そして「全て」が再び平和に戻りました。
あなたへの思いは、罪や痛みや悲しみよりも、とても力強いものです。
人生の仕事に嫌気がさしている時、その重みに押し潰されそうな時、
失敗の屈辱や怖れに耐えている時、私は道の端に沈んでしまいます。
でもあなたのことを考えるだけで、あなたの新しいハートが私の中に湧き出すのです。
あなたの静けさは上から穏やかに包み込んで、私の落ち着きの無さを静めます。
私の周りに、あなたの胎動する生命が流れ、私の挫けた意志をなだめるのです。
あなたが私の孤独を満たします。
あなが全てを良きものにするのです。
あなたの慈愛の奥深く、あなたの法に抱かれて、私は立っています。
私は全てのものの中にあなたの手を見ます、そして、あなたの手の中に全てのものを見ます。
思いがけないやり方で、あなたは私を導きます。
あなたは私の嘆きを賞賛へ変えるのです。

I look to Thee in every need, and never look in vain;
I feel Thy touch, Eternal Love, and all is well again.
The thought of Thee is mightier far
Than sin and pain and sorrow are.
Discouraged in the work of life, disheartened by its load,
Shamed by its failures or its fears, I sink beside the road.
But let me only think of Thee,
And Your new heart springs up in me.
Thy calmness bends serene above, my restlessness to still.
Around me flows Thy quickening life, to nerve my faltering will.
Thy presence fills my solitude.
Thy providence turns all to good.
Enfolded deep in Thy dear love, held in Thy law, I stand;
Thy hand in all things I behold, and all things in Thy hand.
Thou leadest me by unsought ways;
Thou turnst my mourning into praise.


b. マタイ 10:8  「病者を癒やし、らい病持ちを清め、死者を蘇らせ、悪魔を投げ捨てなさい。 あなたは自由に受け取った、(だから)自由に与えなさい。」

Heal the sick, cleanse the lepers, raise the dead, cast out devils: freely ye have received, freely give.



本文

1. ポール・タトル(Paul Tuttle)氏はイエスの声を見事に聞いています。


2.  イエスは英語文では「Being」(存在)と書くのではなく、「Be-ing」(在ること/存在すること)と書くように指示してきました。
彼はそれを名詞としてではなく動詞、つまり「状態を表す言葉」として言っているのです。

あなたは人間ではなく、「人間として存在しているもの」でもありません。
あなたは 「在ることそのもの」(Be-ing)なのです
生きている「神」が「あなたとして在ること」なのです。
そして生きている「神」は、雲/花/鹿/てんとう虫としても「在る」のです。
「神」の生きた現れが、わたし達であり、わたし達の在り方なのです。


3. ワーナー・エアハード(Werner Erhard)著 「Book of Aphorisms(格言の書)」

「馬に乗る時には、その馬が行こうとしている方向に行きなさい。」

 “Ride the horse in the direction that it’s going.” 


4. アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson著「The Higher Pantheism(より高い汎神論)

「彼に話しかけなさい。 何故なら彼はあなたを聞くことが出来るのだから。
そしてスピリット同士が出会うことが出来るのです。 彼は息よりも近く、手足よりも近いのです。」

“Speak to Him thou for He hears, and Spirit with Spirit can meet – Closer is He than breathing, and nearer than hands and feet.”


5. 聖オガスチンの言葉を下記のように理解していた、親愛なる友ジュリー・ルシェナー・レイク(Julie Leuschner Lake)に捧げます。

「神は、あたかも我々が彼の子供であるかのように、我々一人一人を愛しています。」 

God loves each one of Us as if We were His only child.”


6. イザヤ 42:20
 「あなたは色々なものを見ているけれど、何も観察していません。」
You have seen many things, but you do not observe

マタイ 13:9 
「聞く耳を持っているひとは、彼を聞きなさい。」
 “Who hath ears to hear, let him hear.”

マタイ 13:15 
「これらの人々のハートは蝋(ろう)で固められており、彼等の耳は遠く、彼等の目は閉じられています。 もし彼等の目と耳が開かれ、彼等がハートで理解出来るようになったなら、彼等の気持ちが変わったなら、私は彼等を癒やすでしょう。」
“For this people's heart is waxed gross, and their ears are dull of hearing, and their eyes they have closed; lest at any time they should see with their eyes, and hear with their ears, and should understand with their heart, and should be converted, and I should heal them.”

マタイ13:16 
「しかしあなたの目は祝福されているのです。 なぜなら、それらは見ているから。 そしてあなたの耳も修復されているのです。 なぜなら、それらが聞いているから。」 
But blessed are your eyes, for they see: and your ears, for they hear.”

マルコ 8:18 
「眼を持っているのに、なぜあなたは見ようとしないのですか? 耳をもっているのに、なぜあなたは聞こうとしないのですか? そして、なぜあなたは思い出そうとしないのですか?」
“Having eyes, why don’t You see? and having ears, why don’t ye hear? and do ye not remember?”

エレミア 5:21  
「このことを聞きなさい。 愚かな人々よ、あなた達は目を持っていますが見ていません。 耳を持っていても聞いていません。 (あなた達は見てもおらず、聞いてもいないのです。 というより、あなた達は見ないよう聞かないように意図しているのです。)」
Now hear this, ye foolish and senseless people, You have eyes and yet, you do not see; You have ears and yet, you do not hear.
(You will not see nor hear. Or, rather, You will not to see or hear.)


7. エレミア 2:13 
「親愛なる人々よ、あなた達は二つの悪を行なったのです。あなたは(あなたという生きた水の水源である)私を忘れ、自ら『みずため』を壊してしまいました。 あなたは水を保つ事の出来ない『みずため』になっているのです。」
“For You, my people have committed two evils: you have forsaken Me, your fountain of living waters, and have hewn yourselves out cisterns, broken cisterns that can hold no water.”

(なぜこのようなことをしたのでしょうか? 彼は、私達にこの質問に答えてもらいたいのです。 私達は何のために天国と幸福を放棄したのでしょう?)


8. ミカ 6:6-8
『なぜに私は「主」の前に来て、一番尊い「神」の前に跪くのでしょうか?  私は、一年目の子羊や沢山の貢物と共に彼のもとに行くのでしょうか? 幾千のラム酒や油を捧げたなら「主」はお喜びになるでしょうか?  私は自分の過ちのために長子を捧げるのでしょうか?  私の体の果実を、私の魂の罪のために捧げるのでしょうか?
彼が私に示してくれました。 何が「良きこと」か、「主」が私から何を求めているのか。 それは正しいことをして、愛と慈しみを持ち、私の「神」と共に歩むことではなかったでしょうか?』

“Wherewith do I come before the LORD, and bow myself before the most high God?  Do I come before Him with burnt offerings, with calves of a year old?  Is the LORD be pleased with thousands of rams, or with ten thousands of rivers of oil?  do I give my firstborn for my transgression, the fruit of my body for the sin of my soul? He hath shewed me, what is good; and what doth the LORD require of me, but to do justly, and to love mercy, and to walk humbly with my God?”


9. ア・コース・イン・ミラクルズ・ワークブック
A Course In Miracles Workbook”


10. マタイ 11:28-30
「私のもとに来なさい。 疲れ果てている者達よ。 私があなたに休息を与えましょう。 私のくびきをあなたの上に乗せて、私から学びなさい。 私は優しく、心が謙虚なのだから。 そしてあなたは自分の魂のための休息を得るでしょう。 何故なら、わたしのくびきは優しく、私の荷物は軽いのだから。」

“Come to Me, all who are weary and heavy-laden, and I will give you rest.
Take My yoke upon you and learn from Me, for I am gentle and humble in heart,
and You will find rest for your souls.
For My yoke is easy and My burden is light.”

イエスは意図的に聖書の中のこの言葉(For My yoke is easy and My burden is light.)の並びを変えて(for My burden is easy, and My York is Light.)とし、「わたし達がこの(光である)ワンネス(ひとつのもの)なのだ」と理解出来るようにしたのだそうです。
この光=ワンネス(ひとつのもの)がわたし達の実体なのです。

下記がイエスのメッセージです:
あなたという(我々という)「良きこと」が「いま」なのです。
それは「死」という儀式を経た後にわたし達が到達する雲の上の場所ではありません。

死という馬鹿げた儀式は全く「命」とは関係がありません。 彼はこの「命」を我々に教えるために二千年前に来ました。 彼がいまここで話しているのは、この「命」のことです。
ワークブックのレッスン97(「私はスピリットです」”I am Spirit”)を参照してください。


11. 使徒行伝 20:35
「私はあなたに全てを示しました。どのように働いて弱き者を支えるべきか。
そして『与えることの方がうけとるよりも祝福されている』と言った主イエスの言葉を覚えておくように言いました。」
“I have shewed you all things, how that so laboring ye ought to support the weak, and to remember the words of the Lord Jesus, how he said, It is more blessèd to give than to receive.”

(イエスが、これについて説明したいそうです。
常に何かを要求し続けている者達、受け取る必要を感じ続けている者達は、彼等自身を空虚なものとして見ています。 決して満たされることのないもの、全く満ち溢れることのないもの、として見ています。 しかし、与えることを「愛」している者達は、常に必要以上のものを持っているのです。
そして与えるべきギフトは、もちろん「愛」です。)
(20091128)

12. イエスは、ここで電話の邪魔が入ったことを書き記すように指示しました。
ガイダンスは常に与えられ続けており、「わたし達がどの地点に居たか」彼が忘れてしまうことはない、とこの本を読んでいる人に知ってもらえるように。

13. イエスはこの点を強調し続けてきました。
天国は我々に常に与え続けられており、我々が過去と未来を手放して、イエス/「神」/精霊(それが我々の真の在り方です)との意識的な繋がりをまさに今持った時だけ、天国を見つける事が出来るのだと。
 (Page 61 also)

この繋がりがリアリティで、これが何時でも今起こり続けているのです。
これに気付いていないのは、わたし達が過去と未来に気を取られ続けているからです。


14. マタイ 5:48
イエスは次のように私(サン~ローズ)に説明しました。
「あなたはパーフェクトです。 それを受け取りなさい。 何故ならそれが「父」であり「天国」だから。」
You are perfect. Accept it, for that is the Father, which is Heaven.”


15. これは”Flatland”という興味深い本の中に書いてあったアイディアです (Dover Press, Mineola, New York.)。 インターネット上で無料で読むことも出来ます。
この本は、どのようにして天国が常に存在しつづけて、それでも限定された視点からは見ることが出来ないのか明確に説明していると思います。 どうして「今ここにある天国が見られないということ」が在り得るのか、この本は私に理解させてくれました。


16.  動物や卵や乳製品を食べることが、世界の食物事情の政治へどのような影響を持っているか読んだ後、彼=イエスに導かれた私は菜食主義者に成りました。現在、物凄い量の飼料が動物の餌として必要とされているのです。
一パウンド(約0.45キロ)の肉を得るために必要な穀物で、50人の一日の食事が賄えるそうです。

そして飢餓を作っていると同じ利己主義を修正する為に、私は断食/節食に導かれました。
これは食料をセーブするためではなく、(利己的でなくなるという)修正に成りたいと思ったからです。

これと同じアイディアがミア・ファロー(Mia Farrow)さんからも表明されています。

「ダルフール(Darfur)の人々と共に一致団結して(平和の為に)立ちましょう」という彼女の美しい言葉に私も同感します。


17. イザヤ 1:16 
「あなた自身を洗って清めなさい。」
“wash You clean,”

イザヤ 1:18
「いまここに来て、わたし達は論じ合いましょう。
あなたの罪は緋色のようだったかもしれないけれど、(今)それは雪のように白いのです。 それらは真紅に赤かったかもしれないけれど、それらはウールのよう(にピュア)なのです。」
“Come now, and let us reason together, saith the LORD:
though your sins be as scarlet, they (are now) as white as snow;
though they be red like crimson, they (are now pure) as wool.”

詩編 26:6 
「私は自分の手を無垢(と感謝)の中で洗いました。 主よ、そして私はあなたの聖壇の周りで、」
“I wash my hands in innocence (and gratitude), And I go about
Your altar, O LORD,”

詩編 51:7
「(あなたは)ヒソプ(草の一種)を使って私を清めなさい、すると私は清く(新しく)なるのです。 (あなたは)私を洗い、私は雪より白くなるのです。」
“(You) cleanse me with hyssop, and I am clean (and newborn); (You) wash me, and I am whiter than snow.”


18. 映画スーパーマン

19. メリー・ベーカー・エディー著「科学と健康」ページ283
Mary Baker Eddy Science and Health with Key to the Scriptures”

20. 創世記 1:31
イエスは何時もこの箇所を現在形で私に言いました。
「そして神は彼/神が作った全てのものを見ています。 それをとても良いものとして見ています。」
“And God sees Every Thing that He makes, and beholds It as very Good.”

そして「全てのもの」には、わたし達全員一人一人が含まれています。
それは「とても良い」だけでなく、「とても愛されている」のです。


21. ヘンリー・バークレー・スイート(Henry Barclay Swete)著 「The Gospel According to Saint Mark(聖マルコの福音書)」

スイート氏はとても教養の高かった人で、この本は英語/ドイツ語/ラテン語/ギリシャ語で書かれています。
下記は、聖書の中のマルコ1:23- 27に言及しています。

『その寺院の中に穢れた(不純な)スピリット(霊)を持った人が居ました。
彼は叫びました「我々のことは放っておいてくれ。ナザレのイエスよ、我々とあなたに何の関係があるのか? あなたは我々を破滅させるために来たのか? 私はあなたが誰だか知っている、神の聖なる人よ。」
イエスは彼に答え戒めました。 「あなたの平和を保ち、穢れたスピリットの中から出てきなさい。」
すると穢れたスピリットがその人を身悶えさせ、大きな声で叫んだ時、穢れたスピリットの中からその人が出てきました。
人々は驚き、囁き合いました。「一体これは何なのだろう? これは新しい教えなのだろうか? 彼は権威をもって穢れたスピリットにさえも命令している、そして、それらは彼の命令に従っている。」』

“And there was in their synagogue a man with an unclean spirit; And he cried out, Saying, Let us alone; what have we to do with thee, thou Jesus of Nazareth? art thou come to destroy us?  I know thee who thou art, the Holy One of God.
And Jesus rebuked him, saying, Hold thy peace, and come out of him.  And when the unclean spirit had torn him, and cried with a loud voice, he came out of him. And they were all amazed, insomuch that they questioned among themselves, saying, What thing is this? what new doctrine is this? for with authority commandeth he even the unclean spirits, and they do obey him.”

スイート氏は次の素晴らしい解説を書いています。
「出エジプト(脱出)は今でも可能なのです。 何故なら、人のパーソナリティ(人の正気)は、虐げられてはいても、それでも十全なまま保たれ続けているのだから。」

この文章を昔読んだ時、癒しがいつでも可能であることを理解し、私は勇気付けられました。

マインドや体が病んでいる時にも、「リアルな者(ここでは人のパーソナリティと書かれています)」はいつでも安全/完璧なのだと理解しました。

一度はクリアな意識を取り戻した私の娘が、(殺虫剤を吸い込む事故により)もう一度自閉症に戻ってしまった時、この理解が私を支えてくれる礎になりました。


22. 創世記 25:29-3
「ある日ヤコブがポタージュを煮ていました。 すると飢え疲れたエサウが野から帰って来ました。 エサウはヤコブに言ったのです。 『お願いだから、食べ物を下さい。 その赤いポタージュを下さい。 私はとても飢え疲れているのだから。』 (それ故に彼はエドム(赤)と呼ばれるように成ったのです。)
するとヤコブが言いました。『では、この日あなたの長子の特権(持って生まれた権利/相続権)を私に渡しなさい。』
エサウは言いました。『私はもうこのままでは死にそうだ。死んでしまえば、これが何の役に立つだろう?』
ヤコブが言いました。『この日私に誓いなさい。』
そしてエサウがヤコブに誓いました。
そしてエサウが自身の特権をヤコブに売り渡しました。
するとヤコブがエサウにパンとレンズマメのポタージュを与えました。
エサウは食べて飲みました。そして、立ち上がり歩き去りました。
このようにしてエサウは自身の特権を軽んじたのです。」

“And Jacob sod pottage: and Esau came from the field, and he was faint:
And Esau said to Jacob, Feed me, I pray thee, with that same red pottage; for I am faint: therefore was his name called Edom.
And Jacob said, Sell me this day thy birthright.
And Esau said, Behold, I am at the point to die: and what profit shall this birthright do to me?
And Jacob said, Swear to me this day; and he sware unto him: and he sold his birthright unto Jacob.
Then Jacob gave Esau bread and pottage of lentiles; and he did eat and drink, and rose up, and went his way: thus Esau despised his birthright.”

わたし達もこれと同じことをしたのです。 しかしこの権利(わたし達が「神」から受け継いでいるもの)は、精霊として、わたし達のために保たれ続けているのです。

23. 申命記 30:15, 19

「見なさい、私はこの日あなたの前に生命と『良きこと』と死と悪を置きました。私は(私が生命と死と祝福と呪いをあなたの前に置いた)この日、天と地を呼び出してあなたに対する証言をするようにしました。

だから生命を選びなさい。 あなたが生きるように。 あなたとあなたの種が生きるように。 あなたの神である主を愛し、彼の声に従いなさい、彼に寄り添って行きなさい。」

 “See, I have set before thee this day life and good, and death and evil; ... I call heaven and earth to witness against you this day, that I have set before thee life and death, the blessing and the curse: therefore choose life, that thou mayest live, thou and thy seed; to love The Lord thy God, to obey his voice, and to cleave unto him;”

ヨシュア 24:15
「今日この日、あなたが仕える主を選びなさい。それはあなたの父親達が仕えている神々ですか...しかし、私と私の家は主に仕えるのです。」
“Choose you this day whom ye will serve; whether the gods which your fathers served ... but as for me and my house, we will serve the Lord.”

列王記I  18:21
「エリヤが人々の近くに歩み寄り言いました。 あなた達は何時まで二つの間で迷い続けるつもりなのですか? もし神があなたの主なら、それに従いなさい。 もしバールがあなたの主なら、それに従いなさい。」

“And Elijah came near unto all the people, and said, How long go ye limping between the two sides? if the Lord be God, follow him; but if Baal, then follow him...”


24. 詩編 46
「神がわたし達の避難場所であり、わたし達の力なのです。 神こそが困難な時の助けそのものなのです。だから、わたし達は怖れるのを止めましょう。」

“God is our refuge and strength, a very present help in trouble.
Therefore will not we fear”

この言葉は、私と叔母のローラにとってとても重要なものでした。
私はこの言葉を大切にしています。


25. 
ロバート・デニーロ(彼は私の体験したもう一つの奇跡にも関わっています)が「キング・オブ・コメディー」という映画を私の家の近所で撮影していたことがありました。

私は、四人の映画作成スタッに、私の敷地にあった小屋を貸していました。
ある午後、撮影が終った後、私に個人的な質問をしてもいいかと、スタッフの一員のボビーが訊ねました。
「訪ねてもいいけど、答えられるかどうかは解らないわ。」と私は言いました。
「若くて可愛くてご亭主と別れている、あなたのような人がなぜ一人でいるのですか?」と彼が訊ねました。

「私の人生のそのスペースは神によって満たされるようになったのです」と私が言ったその瞬間、何かがシフトしたのです。

わたし達の多くが眼の中に持っている防御、「他者がわたし達を見ること」そして「わたし達が兄弟姉妹を本当に見ること」からわたし達を妨げているシールド、それが彼の目から抜け落ちました。
そしてわたし達は、ピュアで親密な繋がりの瞬間(それはセックスとは何の関係もありませんでした)を共有したのです。

当時の私には、これをどう理解したらよいか解りませんでした。
しかしこの出来事は、その瞬間に、説明出来ない何かを私の中で永遠に変えました。

無防備なマインドから親密さがやって来たのです。
ボビーも、この体験によって祝福されたのだと私は信じています。

わたし達がお互いに対して無防備になれた時、この親密さが全ての人に与えられているのです。

これは限りない自由/開放をもたらすアイディアでした。
この開かれた自由は、ただ単に可能なだけではなく、本来わたし達はこのようにお互いと関係するべきなのです。
何故なら、天国の中には完璧な安全があり、そこには隠すべきものは何もないのだから。


26.  A Course In Miracles; 31, セクション 8. 
「もう一度選び直しなさい。」 “Choose once again”


これらの言葉を初めて聞いた時へレンはどう感じていたのでしょうか?
この美しいフレーズはこのように始まっています。

『もう一度選び直しなさい。
誘惑は、それが何時起こっていたとしても、その全ての形の中で、一つのレッスンだけを教えようとするのです。
それは(誘惑は)神の子に対して、「彼は体である、彼は死すべきものとして生まれている、彼は脆弱に成る運命を逃れることは出来ない、これが(誘惑が)感じるよう彼に命令していることによって彼は縛り付けられている」と説き伏せようとするのです。
それは(誘惑は)「彼に出来ること」に対して限界を設け、それが(誘惑が)与える力だけが彼の力で、彼の把握力(理解力)はそれの(誘惑の)卑小な範囲を越えることが出来ない(と説き伏せようとします)。
もしキリストがその全ての栄光と共にあなたの前に現れ「世界を救う者達の仲間に成るか、あるいは、地獄の中に留まってあなたの兄弟もそこに留め置くか、どちらかもう一度選び直しなさい。」とあなたに尋ねたなら、それでもあなたはこれを(誘惑を)選び続けますか? 彼(イエス)は来て、これをあなたに尋ね求めています。』

Choose Once Again
Temptation has ONE lesson it would teach, in ALL its forms, WHEREVER it occurs.
It would persuade the holy Son of God he is a body, born in what must die, unable to escape its frailty, and bound by what it orders him to feel.
It sets the limits on what he can do; its power is the only strength he
has; his grasp cannot exceed its tiny reach.
Would you BE this, if Christ appeared to you in all His glory, asking you but this, “Choose once again if you would take your place among the Saviors of the world, or would remain in hell, and hold your brothers there.”
For He HAS come, and He IS asking this.


19681010日)

あなたはこの選択をしてくれるでしょうか? これは簡単に説明出来ることです。
あなたは常に、「あなたの弱さ」と「あなたの中のキリストの力」のどちらかを選んでいます。 
そしてあなたは、自分で選んだ方をリアルだと考えるのです。

「弱さ」にあなたの行動を導かせないことにより、あなたはそれに力を与えないことが出来るのです。

そうすれば、あなたの中のキリストの光が、あなたの行なう全てのことを導くでしょう。

何故ならその時、あなたは自分の弱さを彼(イエス)に差し出しており、それに代わるものとして、彼はあなたに「彼の強さ」を与えるのだから。


27. ルカ 9:60 「死者は死者に葬らせなさい。」
“Let the dead bury the dead.”


ヨハネ 21:22 「あなたは私の後を付いて来なさい。」
”Follow Thou Me.”


28. メリー・ベーカー・エディー「科学と健康(付聖書の鍵)」ページ50
イエスが嘆きの丘の上に運んだ本当の十字架は、真理と愛に対する世界の憎しみだったのです。
The real cross, which Jesus bore up the hill of grief, was the world’s hatred of Truth and Love.”


29. ヨハネ第一の手紙 4:18  「完璧な愛が怖れを投げ捨てます」
「愛の中には怖れがありません。 しかし、完璧な愛は怖れを投げ捨てます。 何故なら、怖れは苦悩を抱えているから。
怖れている彼は、愛の中でパーフェクトにはなっていません。」
There is no fear in love; but perfect love casteth out fear: because fear hath torment. He that feareth is not made perfect in love.”


30. 黙示録の下記の部分に対してイエスは説明しています。
「そして神は彼等の目から全ての涙をふき取るでしょう。 そうなれば、もう死も悲しみも嘆きもなくなるでしょう。 それらがなくなれば、もう痛みもなくなるでしょう。」
“And God shall wipe away all tears from their eyes; and there shall be no more death, neither sorrow, nor crying, neither shall there be any more pain: for the former things are passed away.”

ヨハネ6:63 
「スピリットが生命です。 肉体は本当は存在していません。」
It is Spirit that is Life, the flesh is nothing, literally.
(イエスは私に、聖書のこの箇所に対して、上記の解釈を示しました)


31. 賛美歌「Delight in GodOriginal Trinity Hymnal, #543 “O Lord I would delight in Thee”


32. 創世記 28:10-12 ヤコブの梯子
「ヤコブはベエルシバを発って、ハランへ向かいました。
彼がある所に着いた時、日が落ちたので、彼はそこで夜を過ごす事にしました。
彼は、そこにあった石を一つ取って、それを自分の頭の後ろに置き、そこに横たわって眠りました。
彼は夢を見ました。 夢の中で彼は、梯子が地上に立っており、その先が天国に届いているのを見ました。 そして「神」の天使達がそれを上り下りしていました。」
“Jacob left Beersheba and set out for Haran.
When he reached a certain place, he stopped for the night because the sun had set. Taking one of the stones there, he put it under his head and lay down to sleep. He had a dream in which he saw a stairway/ladder resting on the earth, with its top reaching to heaven, and the angels of God were ascending and descending on it.”

ヤコブの梯子は、イエス・キリストの隠喩として考えることが出来ます。
イエスはア・コース・イン・ミラクルズの中で「彼/イエスが我々より一つ上の桁におり、我々が上に昇ることを助け励ましている」と云っています。


33. メリー・ベーカー・エディーによる賛美歌「Christ My Refuge


34. メリー・ベーカー・エディーによる賛美歌「Love


35. メリー・ベーカー・エディー「科学と健康(付聖書の鍵)」ページ586:23
「愛はそれに答えてもらえなくとも、そのまま愛であり続けます。」
“Love meeting no response, but still remaining Love




サン~ローズの他の英文著作
A Radiant Life 

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より詳しくは www.outskirtspress.com/ARadiantLife (英文)を参照してください。

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