Mar 15, 2011

あなたは#6

21. Miracles are natural expressions of total forgiveness.

21. 奇蹟は「完全な赦し」から自然と現れてくる表現なのです。

私たちはこの主題に関してもっと話し続けましょう。 あなただけでなく、無数の人達がそれを必要としているのだから。

あなたの世界は怖れに対する防御的な怒りに満ちています。

この怒りを完全に消すものが「赦し(Forgiveness)」です。

これは不満や立腹を手放すことだけでなく(もちろん、それらは自由をもたらす大切なことなのですが)、それ以上のことを含んでいます。

「赦し(Forgiveness)」とは意識の焦点(自分の存在理由)をシフトすることです。 それは「何故自分がここにいるのか」ということに対する理由/説明/気付きを変えることです。

世の中のほとんどの人達が何かに中毒しています。 あなた自身や他者の行動を見れば、これは明白でしょう。

中毒には多くのバリエーションがあります。
怒り、怖れ、ドラッグ、セックス、権力、支配、被害者、コントロール/支配、戦争ゲーム、お金、苦情など。
これらに耽溺してしまうことが、(私たちが以前に話した)「取るためにここに居る状態」なのです。

そして「与えるためにここに存在すること」が「赦し」の状態なのです。
これだけがエゴを無視する方法なのです。

私が(奪うためでなく)与えるために来ていることは明白でしょう。

このギフトは、強欲な子供達によって取られて行きました。 しかし彼等の大半は、「癒しのギフト」の後ろにあるものには気づきませんでした。

「モータル/必滅者」のふりをしている者は、物に飢えており、傷み/欠乏の緩和に飢え切っています。(だから彼等は癒やしを必要としており、それを奪い取って行きました。)

しかし、そうやって「ギフト」を受け取っても、この「ギフト」の意味が理解出来なければ、それはギフトの包まれている美しい包装紙に目を奪われて、それを着ようとするようなものです。 
その間「生命のギフト」という本当の「衣服」は床に捨て置かたままなのです。

奇跡に対する準備があなたに出来たということは、「神の与えるもの」を受け取る用意があなたに出来たということです。 

上記の文は何を意味しているのでしょうか?
「神のギフト」を求めない人がいるでしょうか? 

『神よ我を助けたまえ! でもまず、ビタミンや医者や薬や手術やセラピーや放射線治療や化学療法を試して見ます。 これらが上手く効かなかったなら、私を助けて下さい。 それから、(嫌いな)上役や(煩い)義理の父親や(午前1時にロック音楽をかけている)隣人や(お臍にピアスの穴を開けて帰って来た)私の娘を愛する事を私に要求しないで下さい。』

奇跡/「神のギフト」を受け取るとは、「神の与えている全てのもの」を受け取り始めることを意味しています。

これは「故郷」を(少なくとも少しづつ)思い出し始めることなのです。

より多くの人々が(人間体験を一時的により過ごし易くするために奇跡を受け入れようとするのではなく)『あなたの体験している奇跡があなたの人生を変えること』を許可し始めなくてはいけません。

頭痛が癒やされることとは、『あなた(自分)は頭痛をこれ以上必要としていない』という宣言なのです。


Through miracles, man accepts God’s forgiveness by extending it to others.

人は奇跡を通して赦しを他者に差し出し、そうすることで「神」の赦しを自身のためにも受け入れるのです。

では、あなたはどのようにして、「与えること」を差し出すのでしょう?
どうしたらあなたは、「他者に与える存在」になれるのでしょうか?
これは二つのステップで踊るワルツに例えることが出来ます。

第一のステップは、「聖なる神の現れ」が「あなたの隣人」そしてあなた自身として出現しているのを「認識」することです。

そして(第一ステップと同じぐらい大切な)第二のステップは、「生きている愛」の「ギフト」を贈ることです。 あなたはそれを差し出すように「ガイド」から指示されます。

『おお、あなたは「神」の祝福された子供なのです。良く在りなさい。』と言うだけでは、そう思うだけでは「ギフト」は不完全なのです。

私(イエス)か「神」に尋ね聞きなさい。 そうすれば、あなたが「何を言うべき」か「何をするべき」か「ガイダンス(指示)」が与えられるでしょう。

そうすれば、傷付いた人が本当に「愛」を感じられるようになります。
彼も、自身の癒しがあなたの処方/権威から来るのではなく、それは「与えたい」というあなたの意志から来ていると解るようになります。

「神の名前」に則って(「神」の性質の下に)差し出されている(そのことを口に出す必要は必ずしもありませんが)、あなたの「ギフト」から、何か「新しいこと」が贈り手と受け手の両方に与えられるでしょう。

その時「リアルな実際の状態」に対する記憶があなた達両方の前に少しづつ現れるのです。 地獄の中で(なぜだか真新しい可能性で輝いている)「天国」の光が見えるのです。

こうしてあなた達は「故郷」に一歩近づくのです。


22. Miracles are associated with fear only because of the fallacious belief that darkness can HIDE.

22. 奇跡が怖れと関連付けられているのは、「闇が何処かに潜むことが出来る」という間違った信念だけに由来しています。


2006526

どうして奇跡を怖れる人がいるのでしょうか?

そして「暗闇が何処かに潜むことが出来る、という信念」とは何のことでしょうか?

自分のことをエゴだとあなたが考えた場合、エゴは「光」(「愛の現れ」つまり「神」)によって消し去られてしまうので、「光」が消滅を意味することになり、「光」が恐ろしいものに見えるようになります。


2006528

エゴには一つの「機能/目的」しかないことを覚えておきなさい。 その「目的」は、自分が助かることだけです。 
エゴの「目的/機能」は生き残ることです。 あなたではなく、エゴ自身(分離感覚)を存続させることです。

「これは重要/必要ではない」とあなたに気付かれるぐらいなら、エゴは喜んであなたを殺します。 そして事実、頻繁にそうしています。
このことに気付きなさい。

二千年前に私が、「もし(あなたが)私の言っていることを信じ続けたなら、(あなたは)決して死なないでしょう」と言ったように。 
“If (You) keep My saying, (You) will never see death.”  (ヨハネの福音書、第8章、51) 

ゆえに、エゴは暗闇を愛しているのです。 暗ければ暗いほど、「光」が遠くなり、エゴにとって好都合なのです。

それゆえに、人間的状況内では憂鬱が一般的なのです。 そして「真理」が意識の中に介入して来るに従い、エゴは憂鬱を益々増やしていくのです。

憂鬱はエゴのためによく働くものです。 そして憂鬱はエゴだけから来るものです。

解りますか? 
神聖な観点からは憂鬱になる理由は全く見当たりません。


Man believes that what he cannot see does not exist, and his physical eyes cannot see in the dark.

人は「自分に見えていないものは存在していない」と信じています。 そして人の物質的/肉体的な目は暗闇の中を見ることは出来ません。

そしてあなたは確かに「自分に見えないものは存在していない」と信じています。 それは何故でしょう?

それは、エゴがあなた(あなたが自分と呼んでいる者)に成ることをあなたが許可したからです。

あなたは「あなたで在るもの/真のあなた」を「光」の中に「光」として隠して、(と同時に)あなたはエゴの暗い洞窟の中に隠れたのです。 エゴの洞窟の中のあなたは「光」に不慣れになってしまい、盲目になってしまったのです。


This is a very primitive solution, and has led to a denial of the Spiritual eye. *

これは、とても野蛮な解決方法で、これを信じることにより「スピリチュアルな目」は否定されてしまいました。*

これを野蛮な方法と呼ぶことさえ、褒め過ぎているぐらいです。

これは『「良きこと」に対して目を瞑り、と同時に暗闇に対して文句を言っている』とても子供っぽい、とても未熟な在り方です。 

もちろん本当の解決方法は、卑小なエゴのマインドから自分の意識を引き離し、どのようにしたら『他者が必要としている「愛」を差し出せるか』考えることです。

The escape from darkness involves two stages:
The recognition that darkness CANNOT hide. This step usually entails fear.

暗闇から離脱するには、二つの段階を経る必要があります。
第一に、暗闇が隠れることは出来ないと認識することです。 通常このステップは怖れを引き起こしてしまいます。

(別の言い方をすれば)このステップであなたは、自分が今まで本当は何をして来たのか理解し、それとは違ったことをし始めるのです。

するとあなたが今まで行って来た非常に自己中心的な思考は、あなたにとってとても不快に感じられるようになります。

あなたは、あなたが遊んでいるゲームにも係わらず、「愛/神の現れ」であることを覚えておいて下さい。 この記憶が「故郷」への望郷をもたらすでしょう。

この記憶が戻り始めると、大概の場合エゴは「神」の「報復」に対する怖れを持ち出して来ます。 これは全く理屈に合わない話です。このような考えが可能なのは、「愛の現れ」がどのようなものか、あなたが忘れてしまったからです。

しかし罰することが好きなエゴにとっては、このような怖れとその概念が、とてもリアルにそして合理的に見えるのです。 これは「神/愛」を完全に忘れることと繋がっています。

しかし(神があなたを罰するという)このような考えは、「真理」からは程遠いものです。 
そして「故郷」への道を探すために、あなたに必要な唯一のものは「そうしようとする決意」だけです。
だから私は「そうしようとする少しの意志」をあなたから求めたのです。


The recognition that there is nothing you WANT to hide, even if you COULD.

次のステップは、「あなたが隠したいと思うようなものは何も存在していない」(たとえあなたがそう欲していたとしても)と認識することです。


2006 529

私と共にいる時、あなたはとても安心しているでしょう。
さあ、「あなたの限りの無さを私が全て受け入れていること」をあなたの中で増やしていきなさい。

これだけの「愛」があなたをサポートしている時、「愛に値しないように見えている者達」を「愛」することがそれ程難しく見えますか?

「神」はあなたを「愛に値しない者」としては創造していません。
そして「神」はあなたが嫌っている人達も「愛に値しない者」としては創造していないのです。

あなたは今これに気付きました。そして、この可能性が見えて来てはいませんか?

あなたが喜んで「イエス」とうなずいているのが私には感じられます。
あなたが「喜び」と共に「肯定」していることを私は感じます。
あなたが自分の意思(意欲)を私に差し出したなら、私たちに出来ないことがあるでしょうか?

これは、あなたが感じている「安心/安全」を示しており、あなたが自分の意志を安々と私にゆだねていることを示しています。

世界の中の色々な事柄がまだあなたを怖がらせています。 しかし、「神」の「抱擁」があなたの「聖域」にっており、それは「良きこと」です。


This step brings ESCAPE from fear.

このステップが怖れからの避難をもたらします。


2006530

恵み深い「良きこと」から善良な「宇宙」が流れて来ます。 
善良な世界の中に、「怖れるべきもの」などがあるでしょうか?

だから「リアリティ」は永遠なもの、「良きもの」なのです。
そして「分離したマインドを持っている者」だけが、『そこに存在していないものを「見る」ことが出来ている』と信じているのです。

何故世界は(「リアリティ」から遠く離れた)このように奇妙なやり方で知覚されているのでしょうか?

これは重要な質問です。 この質問に対する答えが「本当は実在していない監獄」のドアの鍵を開けるのです。

*「スピリチュアルな目」という言葉は、その後「精霊」で置き換えられました。 そして「物理的な目」がエゴになりました。 )

あなたは自分が世界を歪めて見る選択をしたことを忘れてしまっています。
そして私が今、喜びと共にそれをあなたに思い出させているのです。

その理由は簡単です。 夢見ている人は、目を細めることで世界を今までとは違った風に(歪めて)見ることが出来ると発見し、奇妙な喜びを感じていたのですが、その無謀な試みに対して急に怖れが起こったのです。

「神」の全能を否定することは、消滅の罰に値するように見えたのです。 (しかし、そのような考えは真理とは無関係です。)

こうして、初めの楽しさは消え、その代わりに生き残りゲームが現れました。

この奇妙なエゴ思考は、自分の生存(生き残り)だけを重視して、日に日にエイリアンのようになって行きました。 そして、少し前まで自分の愛しい兄弟姉妹だった者達を、犠牲/生贄にしようと考え始めました。

この「心のなさ」が、「正しくあること」(この新しい概念が「全ての存在」の「良き性質」に取って代わったのです)の絶対必要性のもとに正当化されたのです。

そして、生存が「より正しく在ること」に強く依存するようになりました。
あなたの世界を見渡してごらんなさい。 その全ての関係を見てごらんなさい。

(全ての関係の中で最も優しい筈の)親子関係の内でさえ、親と子が正しさを巡って争っています。 そして両親は「親である自分が、それを正しいと決めたから」という理由なしには、子供の正しさを認めようとはしません。

このようにして、それぞれの「人」のいる所に静かに立っている「愛」が、憎しみのゲームの影に隠れてしまっているのです。

この痛みはとても大きいので、夢見ている人(その人は寝続けているのですが)はすぐに疲れてしまいます。

だから「死」が発明され、そのパートナーである「罪」と「病」が不運な人々の「最後の褒美」として発明されて、この考えが合意/共有されました。

この夢には、死という出口が常に付けられています。
これにより選択し直すことが可能なのです。

しかし(あたかも「神」のように)正しさを要求する、この行動に中毒している人々は殆どの場合、もう一度夢見ることを選んでしまうのです。

この二千年の間私はあなた達に『何時でも「神を選ぶこと」が出来る』と言って来たのです。

「この選択」を行えば、「良きこと」は全く失われず、「いまここで」言葉に表せない幸せを「得る」ことが出来るのです。

あなたが愛する人を失うことはなく、彼等があなたを失うこともありません。 その代わりに、彼等をあなたの血塗られた生き残りの聖壇の犠牲にする代わりに、あなたはもう一度本当に愛しはじめるようになるのです。

「あなたの平和」が確立され、彼等の「真」の健全があなたの一番の願いになるのです。

No comments:

Post a Comment